「堕落」
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人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。
戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。
だが、人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。人間は可憐であり脆弱であリ、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。人間は結局処女を刺殺せずにはいられず、武士道をあみださずにはいられず、天皇を担ぎださずにはいられなくなるであろう。
だが、他人の処女でなしに自分自身の処女を刺殺し、自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして人の如くに日本も亦堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である。
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共同幻想に囚われた人間は永遠に堕ちぬくことはできない。
個人の始めと終わりの生と死も共同幻想に囲い込まれた世界で人間は堕ちぬくことはできない。
堕ちぬくことができない人間は共同幻想に浮かぶ他人の処女を刺殺し武士道をあみだし天皇を担ぎ出して共同幻想化する。
「人間は生き、堕ちる。そのこと以外に人間を救う便利な近道はない。」
人間は正しく堕ちきることができる。
他人の処女、武士道、天皇はあまねく共同幻想でありその共同幻想を抱く自分もまた共同幻想である。
共同幻想を抱く自分は自分自身の逆立像であり共同幻想に浮かぶ虚像であって自分自身ではない。
人間は自分を共同幻想から解き放ち自分自身として堕ちていけば正しく堕ちきることができる。
正しく堕ちぬくことができれば人間は自分自身を発見することができるし救われる。
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『お前の眼の中にあたしは軽蔑を読みとりたいのよ、軽蔑と、怖気を』
これが母の、母としての、又、女としての最終的な願望であった。人を堕落に誘うとは、真理に目ざめさせることであり、彼女はもはや究理者ではなくて、その信ずる真理の体現者でなければならず、要するに究極的に『神』でなければならないのである。
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(中央公論社発行「小説読本ー小説とは何かー(ジョルジュ・バタイユ)」三島由紀夫著)
人間は「堕落」によって真理に目覚め救われる。