「永遠」
””
また見つかった、
何が、永遠が、
海と溶け合う太陽が。
独り居の夜も
燃える日も
心に掛けぬお前の祈念を、
永遠の俺の心よ、かたく守れ。
人間どもの同意から
月並みな世の楽しみから
お前は、そんなら手を切って、
飛んで行くんだ・・・。
・・・もとより希望があるものか
立ち直る筋もあるものか、
学問しても忍耐しても、
いずれ苦痛は必定だ。
明日という日があるものか、
深紅の燠の繻子の肌、
それ、そのあなたの灼熱が、
人の務めというものだ。
また見つかった、
-何が、-永遠が、
海と溶け合う太陽が。
””
(アルチュール・ランボー(小林秀雄・訳)「永遠」『地獄の季節』)
人は心情を持て余す。
「もとよりありもしない希望」という未来を信じてしまえば、
「もとよりありもしない希望」を絶って過去を捨てなければ、
人はその心情を持て余す。
人は持て余す心情に突き動かされて言葉を紡ぎ文字を書き付ける。
なのに、言葉や文字は、その心情を包摂することはない。
その心情を分断して断片とするだけだ。
もとより、人の言葉と文字は、この世界を包摂することはない。
この世界を分断して断片とするだけだ。
人の言葉と文字は、人の世で「人間どもの同意」と「月並みな世の楽しみ」に喰い散らかされた残骸としてある。
人の言葉と文字は、いまの現在にはない、
その在り処は過去と未来にある。
人は、「人間どもの同意」と「月並みな世の楽しみ」に喰い散らかされた言葉と文字で過去を虚構する。
人は、「人間どもの同意」と「月並みな世の楽しみ」に喰い散らかされた言葉と文字で未来を虚構する。
人は、言葉と文字で自然を疎外して、自然から截然として疎外されている。
自然は「おのずからある」として、この世界を包摂する。
この世界を包摂する自然は、その分断と断片である人の言葉と文字を受けつけない。
この世界を包摂する自然は、「おのずからある」ものとして、いまの現在であり、過去も未来もない。
この世界のまったき包摂は、「永遠」である。
過去も未来もない、いまの現在は、「永遠」である。
また見つかった、
何が、永遠が、
海と溶け合う太陽が。
自然の海と太陽は溶け合って、分断と断片である人の言葉と文字を超然と凌駕し、この世界の包摂のさまを開顕する。
自然の海と太陽は溶け合って、在り処を過去と未来とする人の言葉と文字を厳然と峻拒し、この世界の永遠のさまを開顕する。
広大無辺な海のはるか彼方に赫々たる太陽が沈みこみ溶けて行く、
また、見つかった、
「永遠が」
独り居の夜も
燃える日も
心に掛けぬお前の祈念を、
永遠の俺の心よ、かたく守れ。
人は、その在り処が未来の「お前の祈念」など心に留めることはない。
「お前の祈念は」は、「人間どもの同意」と「月並みな世の楽しみ」に喰い散らかされた残骸世界のなかに晒されてあるだけだ。
「独り居の夜」も「燃える日」もいまの現在としてある、「永遠」の一日だ。
また、「永遠」を見つけた、
その「永遠の心」は、「お前の祈念を守ってくれる」。
人間どもの同意から
月並みな世の楽しみから
お前は、そんなら手を切って、
飛んで行くんだ・・・。
「お前の祈念」は、「人間どもの同意」と「月並みな世の楽しみ」で喰い散らかされた言葉と文字のなかに消え行く運命にある。
「お前の祈念を守ってくれる」のは「永遠の心」だ。
その「永遠」を見つけに、お前も「飛んで行くんだ」。
・・・もとより希望があるものか
立ち直る筋もあるものか、
学問しても忍耐しても、
いずれ苦痛は必定だ。
「希望」も、「人間どもの同意」と「月並みな世の楽しみ」に喰い散らかされた残骸世界のなかにある。
その「希望」が、「人間どもの同意」と「月並みな世の楽しみ」を拒絶してその彼方へと投げかけられたとしても、すぐに「人間どもの同意」と「月並みな世の楽しみ」がその危険な匂いを嗅ぎつけて喰い散らかす。
喰い散らかされた残骸から立ち上がるすべはない。
「学問しても忍耐しても」なお、「人間どもの同意」と「月並みな世の楽しみ」が襲いかかって喰い散らかす。
未来を信じるかぎり「いずれ苦痛は必定だ」。
明日という日があるものか、
深紅の燠の繻子の肌、
それ、そのあなたの灼熱が、
人の務めというものだ。
「明日」は、「人間どもの同意」と「月並みな世の楽しみ」に喰い散らかされた残骸世界のなかにあるだけだ。
「永遠」を見つけたら、「明日という日があるものか」
たったのいまの現在があるだけだ。
いまの現在にこそ、「深紅の燠の繻子の肌」を輝かせ、その「灼熱」に身をさらす、
それが「人の務めというものだ」。
また見つかった、
-何が、
-永遠が、
海と溶け合う太陽が。
ジャズ③
さきほど仕事を決めに出かけたとき、アタリは付けておいた。
途中、あ、ココだな、って風情の路地があるのを見逃してなかった。
それにしてもいったい、知らない街を歩き始めるとあの「遠くへいきたい」が聞こえてくるのは、どういうことか。
どうして知らない街へ行きたくなる、どうして遠くへ行きたくなるのか、って考えたことはある。
でも、なに、そんなもの気分の問題じゃないか、そんな気分になるなら、そのままにそれにしたがうのが一番ってことにした。
それにしてもいい曲だ、六八コンビの永六輔作詞、中村八大作曲で、歌はジェリー藤尾だった。
どうしてあんな歌が作れるのか、どうしてあんなふうに歌えるのか、って考えたことがある。
そのときは、あの人たちの持って生まれた感性があるとしても、あのころの時代の環境がその感性を世界に向けて広く大きく開かせたものだ、ってな、それなりの結論にしていたと思う。
でも、そんなことよりなによりも、いい歌はただそのまま聞いてそのままそれに浸っているのが一番ってことに変わりはなかった。
この稼業だと、いまでもはじめての知らない街にいくことがけっこうある。
ここもはじめてだった。
ホテルを出てさまよいだすと、もうおきまりの「遠くへ行きたい」が耳元で流れはじめた。
先ほどアタリをつけておいた路地に入ると、すぐ右手に3巾の暖簾がそよりと揺らめいていた。
客の手で汚れてよれよれの麻生地のまんなか巾に”酒”のただ一文字だ。
これはいけそうだ。
ちょいと屈んで木戸を引くと、たしかな頑固面の親爺がカウンターの奥からじろっと眼をくれて、ぶっきらぼうに、
ーへい、らっしゃい。
ああ、これはいける。
ー親爺さんの一番気にいってるやつ、冷やでくれないか。
ーそうかい。
このそっけなさも気に入った。
お通しからして、こだわっていた。
ともかく日本酒は酔いがまわる、
2合目を飲みほすかってあたりで、しっかりじんわり酔ってきた。
ここでなにか曲でもかかればいうことなしだったけど、音は親爺の趣味じゃなさそうだ。
そのうち、ゆらゆら体がゆれだし、ああこのまま寝落ちしてしまうか、あぶないな、ってすんでのところだった。
ー遅い!
さっきまでの調子と違う親爺の、小さかったが怒りのこもった声に驚いて、カウンターに落としていた顔をふいとあげた。
親爺の娘らしかった、
えい面倒とばかりに髪を後ろで輪ゴムでクイと束ねて、サッパリと洗い晒した割烹着で、親爺の声など聞こえないふうで、俯きながら洗いものをやっていた。
子は親のことはわからないし、親は子のことがわからない。
だからしょうがない、喧嘩してもしょうがない、
それでも喧嘩するしかないのが人の世だ。
こっちも、なんだかんだあっても、そんな人の世で生きてる。
そう思えば、あとは限られる。
そう思って、ジャズをやりはじめた。
ジャズのピアノ弾きで人の世を流れ歩いてきた。
娘が洗いものを終えたらしく、手拭いに手をやりながらこっちのカウンターを見遣って、「なにかお造りしましょうか」って、その襟元に粋筋がスッと浮かんだかにみえたが、そのすぐ横で親爺の変わらぬ頑固面がそっぽを向いていた。
ーいや、
ごちそうさま、
お勘定。
店を出ると夜の闇がすっかりと深まっていた。
ジャズ②
ホテルでは、部屋に帰ると、着ていたものを一気に脱ぎ捨て、バルブ全開のシャワーをしたたかに浴びて、缶ビールをプシュ、ごくん、プアー、ってコースを鉄板のルーティンとしている。
この極めつけのコースは、缶ビールがキンキンに冷えてるとサイコー、となる。
今日のはコンビニで買ってきたやつだったから、まずまずっていうしかなかったけど、この稼業だ、このルーティンだけは外せない。
2本目でゆらゆらとなり、3本目をプシュっとやったときには、もうそばのベッドが悩ましげに手招きをはじめていた。
せっかくの招待だ、ことわるわけもない。
倒れこむとあっという間、心ごと体ごと、もうこれいじょう生き縋ることもないかと思えるほどの勢いで、スー、と深ーく、落ちていった。
隣の部屋に客が入ってきたかなにかの物音で眼が覚めたようだった。
もう、5時をすっかりまわっていた。
ああ、やっぱりあの人は来なかったな、と思えるのにじゅうぶんな時間となっていた。
約束してたわけじゃない。
昨日チェックインしたときフロントから、”オースガさんから明日4時というメッセージが届いてます”、といわれただけだ。
約束なんかまずしないことにしている。
たまに心と体をジンジンさせるだけのことだ。
で、そのときだけだ、
まんざらでもない、って思えるのは。
約束なんかして、あとのことに気がいってしまうと、いま、そのときのジンジンもそぞろになってしまう。
だから、仕事のほかで約束はしないことにしている。
たぶんあの人もそう、約束なんかしないんだ。
これまで3回ほど”明日何時”なんてメッセージを残すだけだった。
それで、それがあたりまえのように、やってきたことは一度もなかった。
こんども来なかった。
そんなあの人とは2年ほど前に出会っている。
雇われたクラブに早入りすると、なにやら事務室あたりが騒がしくてちょっとそば耳をたててみた。
どうやら、前のピアノマンらしかった。
客とトラブってクラブマネージャーから首にされたらしかった。
これはひとごとじゃないな、こっちも、ちかごろのわけのわからない客とトラブったからって首になりたくなんかないからな、と一人ごちの思いがフット湧いてしまって、ドアをわざと強めにノックするなりドンと開けて、いきなり言ってみた。
ーマネージャー、なんかあったのか
不意を食らったマネージャーはついと眼をそらしてその仏頂面をなお顰めてみせた。
数秒の間が抜けてしまって、あれっ、てとまどったところ、こっちに小さなまるい背中を向けたままの男が、誰にいうふうでもなく、ぼそっと呟いた。
ーいいんだよ、
俺のことだ。
それがあの人だった。
業界ではそれなりに知られた、”オースガ”って名乗ってる、そのときにはもう老残しきりの男だった。
次の日、2回目のステージが掃けて裏口から帰ろうとしたとき、暗がりのなかに昨日の小さなまるい背中がほの見えた。
首をちょっと左に傾げて、人差し指と親指で丸括弧をつくった左手首をクイッと手前に返すと一人スタスタ歩きはじめた。
察しはついた。
ジジッ、ジジッと音立ててまだ生きてるぞってさまのネオンが、表玄関ドアになんとか引っ掛かりしている、こじんまりのショットバーだった。
カウンターのなかで腰掛けてた、すっかり白髪の眼窩の奥まった老人がすっと立ち上がってあの人を迎えた。
ーマスター、ジムビームのブラックあったかい、
ストレート、チェイサーなしだ。
君は。
ーじゃ、こっちも同じやつで。
マスターも察しがいい。
こっちにはさりげなくチェイサーが添えられた。
”オースガ”って、「オスカー・ピーターソン」バレバレなのに、飲みのほうは「ストレイト、ノー チェイサー」って「モンク」なのがおかしくて、ツッコミ入れようかと思ったが、あの人がカウンターのほうへ眼をやったきりそ知らぬふうだったのでやめておいた。
それからツーラウンドばかり、二人、ほぼ同じタイミングで「マスター、同じやつ」、っていったきりだった。
それぞれカウンターのあらぬほうを見つめるばかりして、たがいに眼を合わせることもなく、話をかわすこともなかった。
ーじゃ、帰ろうか、
ああ、ここはいいから。
そんなふうにあの人が言ったのか、そんな素振りをしただけだったのか、どっちにしてもあの人に促されてショットバーを出ると、こっちの2、3歩前を歩きだしたあの人は、その後ろ姿のまま、首をちょっと左に傾げ、じゃーな、とかるく左手を翳すや、スタスタと駅のほうへと去っていった。
あれから3度ほど、あの人は”明日何時”なんてメッセージをよこしてきただけだ。
そして、それがあたりまえのように、ほんとにやってきたことは一度もなかったし、こんども来なかった。
約束などしない。
たまに心と体をジンジンさせるだけだ。
そのために、ほんとはありもしない未来なんていう幻は捨てるにこしたことない。
まだ残る酔いと眠気に惑わされる心のなかで、とうに未来など捨ててなお老残を生きている、あの人の、あの小さなまるい背中が浮かんでは消えた。
さて、外がそろそろと暮れなずんできた。
たまさかのジンジンにありつけるか、ちょっと出掛けてみることにしよう。
ジャズ
裏口のアルミドアのノブがすんなりと回ったためしがなかった。
これもだ。
もういちど手指に力をこめて回すとギッと呻いて開いた。
ーなにか用か
ーピアノだ、聞いてなかったか
ーああ、お前か、あっちだ
外はまだ昼下がりというのに、指差された奥の部屋は暗くて薄ぼんやりみえた。
どこもそうだ、こういったところの事務室はどういうわけか奥まったところにある。
いつものように、小さくコンとノックした。
ーいいよ、入って
ああ、 やっぱり。
燻みきった頬のこけた50がらみの男が椅子からなげやりに足を放りだして、歪めた口元にはシケモクを咥えている。
ー9時から2回だ、1ステージ1万だ、わかってるよな
ー客筋はどんなだ
ーそんなこと聞くか
時代はとっくに変わったよな
誰もお前なんか知らないよ、まあ適当に合わせてくれ
ーじゃ、ちょっと見てくるよ
事務室の隣のドアがステージの裏口だった。
弛みきった袖幕を右手で跳ね上げて入ると、思ったよりステージは広めだった。
客席は丸テーブル10個ほど、せいぜい30人程度で満席か。
ステージ左隅に、あちこち剥げ散らかした背高のアップライトが所在なげだった。
ペダルもとうに艶を失って歪み傾いでいた。
アップライトにしては少し重みのある鍵盤蓋を開けて弾いてみて、わかった。
弾いてみれば、いいやつはこっちの思いに弦が応える、弦がその響きで応える。
こいつはそれなりの代物だ。
べつにベーゼンなんかでなくても、いいやつはいい。
調律はいつも丸投げにしている。
ピアノで糊口をしのぐためには調法ってやつから逃れられないことはわかっている。
なんとかそいつを壊してみたいと思ったことがあったが、しょせんそんなこと無理だとはわかっていた。
ジェリー・リー・ルイスのようにプレイ中にピアノを燃やしてしまうわけにもいかない。
それでも、ジャズなんだ。
いつだったかこれをやろうと思いはじめて、これまでやってきたのはジャズなんだ。
人はむやみに言葉を吐き散らかしてやたらと規則をつくりたがる。
人の言葉ってやつには、ほとほとうんざりした。
人がつくる規則ってやつには、ほとほとうんざりした。
でもそんなことはしょうがない、それが人の世だ。
こっちも、なんだかんだあっても、そんな人の世で生きてる。
そう思えば、あとは限られる。
ただ虚しく、気がつけば巨大な毒虫だったっていうザムザを生きるなんて気はさらさらなかった。
あとは、充実とまではいかなくても、毎日とはいかなくても、たまには心と体をジンジンさせながら、その虚しさの穴埋めでもしながらやっていける生業ってものがあれば、ってことだけだった。
そんなとき、これならなんとかなるかと思った。
それがジャズ、だった。
ジャズのピアノ弾きとしてこの人の世を流れ歩くことだった。
だから調律はいつも丸投げにしてきた。
いいやつは弾いてみればわかる。
こいつはそれなりの代物だ。
いつまでかはわからない、でも、この代物に出逢ったんだ。
まあ、明日からここでやってみよう。
ステージを出て事務室の外から声をかけた。
ー決めたよ。
明日、1回目は9時からだったよな。
ーおう、9時だ。
遅れたらそれっきりだからな。
燻んだ頬の咥え煙草の男の声が背後でくぐもりながら遠のいていった。
裏口のアルミドアは内側からはなんなく開いた。
コンビニに入ってすぐに冷えた缶ビール3本を手にしたが、つまみに迷った。
柔いチーズはナシってところ、硬めのゴーダがあったのでそれを2つ拾い上げてレジに向かった。
ずっと昔、ちゃんとした食事をしなきゃ、っていわれた覚えはあるけど、気取りで生きていくにはそんなものはいらない、ってことにしている。
コンビニを出て、昨日チェックインした駅裏のビジネスホテルに戻ることにした。
あと1時間ほどしたらあの人が来ることになっている。
「ディオニュソス」
””
「ディオニュソスはアジアから来た。この狂乱と淫蕩と生肉啖らいと殺人をもたらす宗教は、正に「魂」の必須な問題としてアジアから来たのである。理性の澄明をゆるさず、人間も神々も堅固な美しい形態の裡にとどまることをゆるさないこの狂熱が、あれほどにもアポロン的だったギリシャの野の豊穣を、あたかも天日を暗くする蝗の大群のように襲って来て、たちまち野を枯らし、収穫を啖らい尽くした・・・。」
「忌まわしいもの、酩酊、死、狂気、病熱、破壊、・・・それらが人々をあれほど魅して、あれほど人々の魂を「外へ」と連れ出したのは何事だろう。どうして人々の魂はそんなにまでして、安楽な暗い静かな棲家を捨てて、外へ飛び出さなくてはならなかったのであろう。心はそれほどまでに平静な停滞を忌むのであろう。」
「それは歴史の上に起こったことであり、個人の裡に起こることでもあった。人々はそうまでしなければどうしてもあの全円の宇宙に、あの全体に、あの全一に指を触れることができないと感じたからに違いない。酒に酔いしれ、髪を振り乱し、自ら衣を引き裂き、性器を丸出しにして、口からは噛みしだく生肉の血をしたたらせながら、・・・そうまでして、人々は『全体』へ自分のほんのつめ先でも引っかけたかったのにちがいない。」
””
””
オリンポスの主神ゼウスが人間と神を区別しようと考えた際、、 ゼウスの子ティーターンの一柱であるプロメーテウスはその役割を自分に任せて欲しいと懇願し了承を得た。
彼は大きな牛を殺して二つに分け、一方は肉と内臓を食べられない皮で包み、もう一方は骨の周りに脂身を巻きつけて美味しそうに見せた。
そしてゼウスを呼ぶと、どちらかを神々の取り分として選ぶよう求めた。
プロメーテウスはゼウスが美味しそうに見える脂身に巻かれた骨を選び、人間の取り分が美味しくて栄養のある肉や内臓になるように計画していた。
ゼウスは騙されて脂身に包まれた骨を選んでしまい、怒って人類から火を取り上げた。この時から人間は、肉や内臓のように死ねばすぐに腐ってなくなってしまう運命を持つようになった。
ゼウスはさらに人類から火を取り上げたが、プロメーテウスは、自然界の猛威や寒さに怯える人類を哀れみ、火があれば、暖をとることもでき、調理も出来ると考え、ヘーパイストスの作業場の炉の中にオオウイキョウを入れて点火し、それを地上に持って来て人類に「火」を渡した。人類は火を基盤とした文明や技術など多くの恩恵を受けたが、同時にゼウスの予言通り、その火を使って武器を作り戦争を始めるに至った。
これ怒ったゼウスは、権力の神クラトスと暴力の神ビアーに命じてプロメーテウスをカウカーソス山の山頂に磔にさせ、生きながらにして毎日肝臓を鷲についばまれる責め苦を強いた。
プロメーテウスは不死であるため、彼の肝臓は夜中に再生し、のちにヘラクレースにより解放されるまで拷問が行われていた。その刑期は3万年であった。
プロメーテウスが天界から火を盗んで人類に与えた事に怒ったゼウスは、人類に災いをもたらすために「女性」というものを作るようにヘーパイストスに命令したという。
ヘーシオドス『仕事と日』(47-105)によればヘーパイストスは泥から彼女の形をつくり、神々は彼女にあらゆる贈り物(=パンドーラー)を与えた。アテーナーからは機織や女のすべき仕事の能力を、アプロディーテーからは男を苦悩させる魅力を、ヘルメースからは犬のように恥知らずで狡猾な心を与えられた。
そして、神々は最後に彼女に決して開けてはいけないと言い含めてピトス(「甕」の意だが後代に「箱」といわれるようになる。)を持たせ、プロメーテウスの弟であるエピメーテウスの元へ送り込んだ。
美しいパンドーラーを見たエピメーテウスは、プロメーテウスの「ゼウスからの贈り物は受け取るな」という忠告にもかかわらず、彼女と結婚した。
そして、ある日パンドーラーは好奇心に負けて甕を開いてしまう。
すると、そこから様々な災い(エリスやニュクスの子供たち、疫病、悲嘆、欠乏、犯罪などなど)が飛び出した。しかし、「ἐλπίς」(エルピスー「希望」、「期待」あるいは「予兆」)のみは縁の下に残って出て行かず、パンドーラーはその甕を閉めてしまった。
こうして世界には災厄が満ち人々は苦しむことになった。
””
(「プロメーテウス」Wikipediaからの抜粋)
””
ディオニュソスは、オリンポスの主神ゼウスとテーバイの王女セメレーの子である。
ゼウスの妻へーラーは、夫の浮気相手であるセメレーを大変に憎んでいた。
そこで、彼女に「あなたの愛人は、本当にゼウスその人かしら?」という疑惑を吹き込んだ。セメレーは内で膨らむ疑惑に耐えきれず、ゼウスに必ず願いを叶えさせると誓わせた上で、「ヘーラー様に会う時と同様のお姿でいらしてください」と願った。
ゼウスは仕方無く雷霆を持つ本来の姿でセメレーと会い、人間であるセメレーはその光輝に焼かれて死んでしまう。
ゼウスはヘルメースにセメレーの焼死体からディオニュソスを取り上げさせ、それを自身の腿の中に埋め込み、臨月がくるまで匿ったという。
セメレーの姉妹であるイーノーに育てられたディオニュソスは長じて、ブドウ栽培などを身につけて、ギリシャやエジプト、シリヤなどを放浪しながら、神である父ゼウスから与えられたみずからの神性を認めさせるために、信者の獲得に勤しむことになる。
彼には踊り狂う信者や、サチュロスたちが付き従い、その宗教的権威と魔術・呪術により、インドに至るまで征服した。
また、自分の神性を認めない人々を狂わせたり、動物に変えるなどの力を示し、神として畏怖される存在ともなった。
””
「ディオニュソスはアジアから来た」
人間である母セメレーの子ディオニュソスは、神である父ゼウスによって、「肉や内臓のように死ねばすぐに腐ってなくなってしまう運命」を、そして、わずかにパンドーラーの残した甕の底のエルピスー「希望」、「期待」あるいは「予兆」をかすかに胸に抱きながら、「火を使って武器を作り戦争をする」、「災いをもたらす女性が住む」人間世界のただなかで生きる運命を与えられた。
宇宙の全体全一の全円であるカオス(混沌)から生まれ、またいつでも宇宙に駆け登りその宇宙の全体全一の全円に指先をかけることができる不死の神である父ゼウスは、オリンポスの丘にただ佇立したまま、その麓の大地の軛にあって生死の苦悩に蠢く人間世界を見下ろすばかりである。
みずからもその人間世界で苦悩しながらギリシャ、エジプト、シリアを彷徨していたディオニュソスは、ついに、父ゼウスのように、みずからも宇宙に駆け登り、その宇宙の全体全一の全円に指を触れることができる、自分のほんのつめ先でも引っかけることができるかもしれない、その秘儀を見い出した。
ディオニュソスは、醸造したブドウ酒を人々に大盤に振る舞い、人々の酒と音楽と踊りと性の忘我狂乱の宴のさまをみて、その宴によって、人間が「肉や内臓のように死ねばすぐに腐ってなくなってしまう運命」を受け入れ、そして、わずかにパンドーラーの残した甕の底のエルピスー「希望」、「期待」あるいは「予兆」をかすかに胸に抱きながら「火を使って武器を作り戦争をする」「災いをもたらす女性が住む」世界のただなかでもなお生きていくことができる、その人間救済の神性秘儀を見い出した。
この人間救済の神性秘儀を獲得したディオニュソスはみずからの神性を誇示しながら、そのはるか遠いアジアはインドから、「酒に酔いしれ、髪を振り乱し、自ら衣を引き裂き、性器を丸出しにして、口からは噛みしだく生肉の血をしたたらせ」ながら、父ゼウスらオリンポスの神々が佇立するオリンポスの丘へと駆け上がり、そしてオリンポスの丘から宇宙に一気に駆け登って、その宇宙の全体全一の全円に自分の指先をかけようと、また自分のほんのつま先でも引っかけようとしたのだ。
””
「権力は、雑多な性的変種を生産し固定する。近代社会が倒錯しているのは、そのピューリタニズムにもかかわらずというのでもなく、またその偽善の反動によってでもない。それは現実に、かつ直接的に倒錯している。」
「中世以来、西洋世界においては、権力の行使は常に法律的権利において表現されていた。」が、近代社会は「法律的権利によってではなく技術によって、法によってではなく標準化によって、刑罰によってではなく統制によって作動し、国家とその機関を越えてしまうレベルと形態において行使されるような権力の新しい仕組み」である。
近代「資本主義が保証されてきたのは、ただ、生産機関へと身体を管理された形で組み込むという代価を払ってのみ、そして人口現象を経済的プロセスにはめ込むという代償によってのみ」である。
””
(「性の歴史Ⅰ 知への意志」 ミシェル・フーコー著 渡辺守章訳 新潮社)
「近代社会は、・・・現実に、かつ直接的に倒錯している」
ディオニュソスはオリンポスの神々の仲間入りは果たしたもののそれら神々が住むオリンポスの丘の隅に席を与えられただけで、なおその中央には父ゼウスが、そしてあの冷徹な理性と流麗堅固の形式身体美に包まれたアポロンが佇立していた。
近代社会は密かにそのアポロンの理性による人間社会の統治理念を淵源としているかのようである。
しかしアポロンの理性は神の理性であり、神の支配統治を拒否して人間中心主義(ヒューマニズム)を宣言した近代社会がその治世のよすがとする理性は人間の理性であって、その淵源は絶たれている。
人間を超越する神の理性は人間社会の統治理念として正立しても、人間が人間の理性によって人間社会を統治するとすれば、その理念は個々の人間に対して「現実に、かつ直接的に倒錯し」、また逆立する。
不死の神ではなく、生死常ならない人間社会では経世済民についての理念形式が求められ、人間の理性が推し進めた近代資本主義においては「人間の個々の身体は生産機関によって管理された形で組み込まれ、そして個々の人間の生殖と死亡は人口現象として経済的プロセスにはめ込まれる」。
人間を超越するアポロンの神の理性が許容し放置してきたとしても、近代資本主義のこの経世済民理念は、ディオニュソスの「酒と音楽と踊りと性の忘我狂乱の宴」の秘儀を許容することもまた放置することもできない。
近代社会は「法律的権利によってではなく技術によって、法によってではなく標準化によって、刑罰によってではなく統制によって作動し、国家とその機関を越えてしまうレベルと形態において行使されるような権力の新しい仕組み」によって、ディオニュソスの「酒と音楽と踊りと性の忘我狂乱の宴」の秘儀に立ち入り、そこに表象される「雑多な性的変種を生産し固定して」分析し、その分析にもとづいて「生産機関へ個々の人間の身体を管理して組み込み、個々の人間の生殖と死亡を人口統計してそれらを経済的プロセスにはめ込む」。
しかし、音楽や踊りや性は人間の個々の個人幻想でありまた相対者との対幻想であって、いかなる経済社会共同幻想や理念も、またいかなる技術や標準化あるいは統制によっても、それらの内実をその裡に組み込んだりはめ込んだりすることはできない。
近代社会がなおの技術や標準化あるいは統制によって個々の人間の行動や生活の隅々にまで踏み入り情報収集に励んでも、音楽や踊りや性など人間の個々の個人幻想やで相対者との対幻想の内実を掌握することはできない。
近代社会がなおの技術や標準化あるいは統制によって個々の人間の行動や生活の隅々にまで踏み入り情報収集に励めば励むほど、人間社会は個々の人間の個人幻想、対幻想からの疎外を深め、ディオニュソスの「酒と音楽と踊りと性の忘我狂乱の宴」の人間救済の秘儀から強く疎外される。
近代社会は、その理性が「現実に、かつ直接的に倒錯している」ことによって、ディオニュソスの「酒と音楽と踊りと性の忘我狂乱の宴」の人間救済の秘儀を受け入れることができず、いまなお、「肉や内臓のように死ねばすぐに腐ってなくなってしまう運命」にあり、そして、わずかにパンドーラーの残した甕の底のエルピスー「希望」、「期待」あるいは「予兆」をかすかに胸に抱きながら、「火を使って武器を作り戦争をする」、「災いをもたらす女性が住む」人間世界のただなかで生きる、その運命にあるままである。
近代社会はこの経済社会幻想の限界と矛盾の焦慮から「科学」という近代幻想によって人間の心身に「現実に、かつ直接的に」侵入し分析して、その限界と矛盾の消滅を企図しているが、その科学幻想の行く末は、その煩わしい限界と矛盾を生みだしている人間と人間社会そのものの消滅であり終焉である。
人間が、そして人間社会がなおある限り、人間は、人間社会はディオニュソスの人間救済の神性秘儀を求めつづける。
ディオニュソスはいまも「「酒に酔いしれ、髪を振り乱し、自ら衣を引き裂き、性器を丸出しにして、口からは噛みしだく生肉の血をしたたらせ」ながら、アジアの野を、そして世界の野を駆け巡っている。
「文化」
””
「文化は、ものとしての帰結を持つにしても、その生きた態様においては、ものではなく、又、発現以前の無形の国民精神でもなく、一つの形(フォルム)であり、国民精神が透かし見られる一種透明な結晶体であり、いかに混濁した形を取ろうとも、それがすでに「形」において魂を透かす程度の透明度を得たものであると考えられ、従って、いわゆる芸術作品のみではなく、行動および行動様式をも包含する。」
「日本人にとっての日本文化は、・・・三つの特質を有する・・・。すなわち・・・再帰性と全体性と主体性である。」
「文化の再帰性とは、文化がただ『見られる』ものではなくて、『見る』者として見返してくる、という認識に他ならない」
「又、『菊と刀』のまるごとの容認、倫理的に美を判断するのではなく、倫理を美的に判断して、文化をまるごと容認することが、文化の全体性の認識にとって不可欠であって、これがあらゆる文化主義、あらゆる政体の文化政策的理念に抗するところのものである。」
「文学の主体性とは、文化的創造の主体の自由の延長上に、あるいは作品、あるいは行動様式による、その時の、最上の成果へ身を挺することである・・・」
「文化における生命の自覚は、生命の法則に従って、生命の連続性を守るための自己放棄という衝動へ人を促す。自我分析と自我への埋没という孤立から、文化が不毛に陥るときに、これからの脱却のみが、文化の蘇生を成就すると考えられ、蘇生は同時に、自己の滅却を要求するのである。このような献身的契機を含まぬ文化の、不毛の完結性が、『近代性』と呼ばれたところのものであった」
「文化主義とは一言を以ってこれを覆えば、文化をその血みどろの母胎の生命や生殖行為から切り離して、何か喜ばしい人間主義的成果によって判断しようとする一傾向である。そこでは、文化とは何か無害で美しい、人類の共有財産であり、プラザの噴水の如きものである。」
””
かの大戦の終わりから長い時を経て日本は「近代」への信仰をなお深めてその運命を「近代」に委ねるしかないところへと流れついた。
「近代」は「文化」を冷笑する。
「近代」は「文化における生命の自覚」の虚妄を申立て「献身的契機」の不在を宣明して「文化」を冷笑する。
「近代」は「日本文化」と並び立つことができない。
「近代」はただ「見られる」ものであり「分別」であり「客観」である。
「近代」は『見る』者として見返しまるごとを容認しみずから身を挺する「日本文化」と並び立つことができない。
「この角道の精華に嘘つくことなく、本気で向き合って担っていける大相撲を、角界の精華を、貴乃花部屋は叩かれようが、さげすまれようが、どんなときであれども、土俵にはい上がれる力士を育ててまいります。」(貴乃花親方)
「近代」は長きにわたって「日本文化」から再帰性全体性主体性を剥ぎ取りその「文化」をただ客観的に鑑賞するだけの芸術作品に貶めるべく様々に企ててきたがいまだなお果たせない。
「文化」は「生命の連続性を守るための自己放棄という衝動へ人を促す。」
「文化」は「蘇生と同時に自己の滅却を要求する。」
「文化」は「自己滅却の献身的契機」によって「完結性」を得る。
「近代」は「文化」を「近代化」すれば「文化」の「完結性」を無くしてこの人の世の主座を占めることができると信じている。
「この角道の精華に嘘つくことなく、本気で向き合って担っていける大相撲を、角界の精華を、貴乃花部屋は叩かれようが、さげすまれようが、どんなときであれども、土俵にはい上がれる力士を育ててまいります。」(貴乃花親方)
「近代」は長きにわたって「日本文化」からその「完結性」を無くして「日本」の主座を占めようと様々に企ててきたがいまだなお果たせない。
「日本」はすでにその運命を「近代」に委ねている。
「日本」は「近代」に「日本文化」から「完結性」を無くして主座を占めるよう委ねるしかない。
「日本」は「近代」がその主座を占めて「日本」を「血みどろの母胎の生命や生殖行為から切り離された、何か無害で美しい、人類の共有財産であり、プラザの噴水の如きもの」にするよう委ねるしかない。
しかしその「近代」はすでにその虚妄と擬もうを顕にしている。
「近代」は「神」に代わりその間然なき理性によって人と人の世を解析整序して救済するとみずから宣明して前へと進み出てきた。
しかし「近代」はすでにしてAI人工知能と万能細胞を創出するに至っている。
AI人工知能はどれほどの機能を獲得しても自然物であり人の知能ではない。
また万能細胞はいかに万能であっても自然物であり人の身体ではない。
人の脳をAI人工知能装置と交換してももはやその生命体は人ではない。
万能細胞によって身体を複製してももはやその生命体は人ではない。
脳をAI人工知能装置と交換して万能細胞により身体を複製すれば人が長く夢想してきた「永遠の生命体」の誕生をみることとなる。
しかしその「永遠の生命体」はもはや「血みどろの母胎の生命や生殖行為から生まれでる」人でもなければ「生命の連続性を守るための自己放棄という衝動へ促される」人でもない。
その「永遠の生命体」が生きる世はもはや人の世ではない。
「神」であれ「近代」であれ救済を求めまた救済されるべきは人であり人の世である。
「近代」は救済を求めることもなければ救済される要もない「永遠の生命体」を創り出し人と人の世をその終末へと誘う虚妄と擬もうである。
「この角道の精華に嘘つくことなく、本気で向き合って担っていける大相撲を、角界の精華を、貴乃花部屋は叩かれようが、さげすまれようが、どんなときであれども、土俵にはい上がれる力士を育ててまいります。」(貴乃花親方)
「近代」はその虚妄と擬もうによって人と人の世をその終末に誘うことができればその「完結」を迎えることができる。
「近代」がその「完結」に至らずまたそれまでその命脈を保つことができれば「日本文化」はなおみずからの「完結性」を誇示して「近代」に勝利することができる。
「受容」
" 人類の共同性がある段階で<母系>制の社会をへたことは、たくさんの古代史の学者にほぼはっきりと認められている。そしてあるばあいこの<母系>制は、たんに<家族>の体系だけでなく<母権>制として共同社会的に存在したことも疑いないとされる。”
” <母系>制はただなんらかの理由で、部落内の男・女の<対なる幻想>が共同幻想と同致したときにだけ成立するといえるだけである。”
” 家族の<対なる幻想>が部落の<共同幻想>に同致するためには<対なる幻想>の意識が<空間>的に拡大しなけければならない”
” ヘーゲルが鋭く洞察しているように家族の<対なる幻想>のうち<空間>的な拡大に耐えられるのは兄弟と姉妹との関係だけである”
” それでアマテラスがこれをきき驚いて申すには、「わたしの兄弟のミコトが天に上ってくる理由は、きっと良い心からではあるまい。わたしの国を奪おうとしてやってくるにちがいない」というと、髪の毛を解いて、ミズラにまき、左右のミズラにもカツラにも、左右の手にも、みな勾玉のたくさんついた珠玉をまいて、背には矢が千本入る矢の靫を負い、胸には矢が五百本入る靫をつけ、臀には高い音を出す鞆を佩き、弓を振り立てて庭につっ佇ち、大地を蹴ちらしておたけびをあげて待ちかまえ、スサノオに「なんのために天に上ってきたのだ」と問うた。
スサノウノミコトは答えていうには「わたしには邪心はありません。ただ父がわたしの哭いている理由をきかれたので、わたしは妣の国にゆきたいとおもって哭いているのですと申しますと、父がお前はこの国に住んではまかりならぬと追放されたのです。それだから妣の国へゆこうとおもう次第を知らせに上がってきたので、異心はありません」とのべた。”
(吉本隆明著「改訂新版共同幻想論 母制論」 角川ソフィア文庫)
姉アマテラスは生誕の祝祭と死の供儀を司る<母権>制共同国幻想を支配する。
弟スサノウは、姉アマテラスが支配する<母権>制共同国幻想の空間拡大と守護の命を拝し、姉アマテラスと妣が鎮座する<母権>家族から離たれ、その共同国幻想の域際に立つ。
その域外にさんざめく異界異族の共同国幻想は、姉アマテラスの支配する<母権>制共同国幻想をその崩壊を企らみさまざまに脅やかす。
その守護にあたる弟スサノウの心身は疲弊し、一人哭いて、姉アマテラスと妣が鎮座する<母権>家族への回帰を願う。
姉アマテラスと妣は<母権>制共同国幻想の空間拡大と守護のためその<母権>家族から離たった弟スサノウの回帰を受け入れることはできない。
姉アマテラスと妣は<母権>制共同国幻想の空間拡大と守護の命に背く弟スサノウをもはやその<母権>家族に受容することはない。
「私たちの政策に合致するか、さまざまな観点から絞り込みをしたい。全員を受け入れることは、さらさらありません。」(希望の党代表小池百合子)
共同国幻想の政策、理念は言葉によって語られる。
生誕の祝祭と死の供儀は祈りと音楽に包まれる。
生誕の祝祭と死の供儀は言葉によって記述することはできない。
共同国幻想の政策、理念の言葉は抽象を余儀なくされてついには唯名に陥いる。
唯名に陥った共同国幻想の政策、理念の言葉は、沈黙によって形成される自己幻想、対幻想を遠く疎外する。
この遠く疎外された自己幻想、対幻想を慰謝し救済しうるのは祈りと音楽に包まれる生誕の祝祭と死の供儀である。
生誕の祝祭と死の供儀を司る<母権>制共同国幻想は、遠く疎外された自己幻想、対幻想の慰謝、救済幻想として、この世にいつも静かに沈潜してきた。
「母子の権利こそ、実は女権の究極であり、女性独自のものである」(高群逸枝『女性の歴史』講談社文庫版上、一九七二年)
「女権そしてその核心の母子の権利をないがしろにする男は居域から追われる。古く母権制につながる新しい母子の権利に基づく生活が、わが住居にやってきたのだ。七〇年代、男権の表れとしての家庭の解体が始まっていたが、一組の男女が暮らす居場所の新しい名前はなかった」(最首悟『大衆の玄像』青土社発行「現代思想」平成24年7月号)
男達が参画する共同国幻想の政策、理念の言葉はとうに唯名に陥り、その唯名の政策、理念の蕩尽によって、女権そしてその核心の母子の権利をないがしろにした。
その共同国幻想に参画した男達は、瞋恚の<女権>家族から、その居域から追放される。
その男達にはもやは居場所はない。
居場所をなくしたその男達はついには<女権>家族への回帰を願うしかない。
<母権>制共同国幻想の主宰者は、女権そしてその核心の母子の権利をないがしろにした男達の<女権>家族への回帰を受け入れることはできない。
<母権>制共同国幻想の主宰者は、女権そしてその核心の母子の権利をないがしろにした男達をもはやその<女権>家族に受容することはない。
「私たちの政策に合致するか、さまざまな観点から絞り込みをしたい。全員を受け入れることは、さらさらありません。」