ジャズ⑩
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あの日はたしか、「はじめての宇宙中継」とかって聞いてて、朝からもう、そわそわワクワクだった。
ザーザー、ザラザラの残念なテレビだったけど、あの遠いアメリカ、そのアメリカのたったいまの様子が生で見られる、って、それはそれはなかなかの興奮だった。
息を呑みながら画面に見入ってた。
そしたら、なんと、いきなりだった。
「ケネディー大統領が撃たれました!」
「大変なことが起こりました!」
「ケネディー大統領が撃たれました!」
ってもう、絶叫、絶叫だった。
これは大きかった、
大きすぎるほど大きかった、
テレビを見ていたこっちにも・・・
あの敗戦の後だ、
田舎の小さな街はしずかに悄然としていた。
その街を歩いていて、それになんども出くわした、
街角で片足の白装束の人が松葉杖をつきアルミ缶に恵み銭が入れられるのを待ちながらじっと俯き立ち尽している姿に、なんども出くわした。
たまにアルミ缶に銭を投げ入れる人があっても、ほとんどの人たちは見て見ぬ振りでそそくさ通りすぎていた。
そのうち街が活気づきだすと、いつのまにか片足の白装束の姿は街角から消えていた。
「敗戦」は終わっていた。
でも「戦い」は続いているんじゃないか、
と思った、
そう思えた。
「敗戦」の戦場で片足を失った白装束の人は、武器じゃなく松葉杖をついて、戦闘じゃなく恵み銭が投げ入れられるのを待ちながらじっと俯き立ち尽くすことで、まだ戦っているんじゃないか、
と思った。
そう思えた。
「敗戦」を生き延びた街の人たちは、勝戦への後方支援や祈りじゃなく、片足を失った白装束の人に投げ銭したり見て見ぬふりをしながら、失われた日常生活を少しでも取り戻そうと、まだ戦っているんじゃないか、
と思った。
そう思えた。
この皆が、誰と何と戦っているのかもわからない、誰が何に対して勝利するかもわからない、ただ押し黙ったままの、この「戦い」は、とても暗くて惨めでどこにも救いようのない不条理だ、と感じた。
そう感じて、
人や人の社会に対してとても怖気づいてしまった。
片足の白装束の姿が街角から消えてその「戦い」は見えなくなった。
それでもその「戦い」が終わったとは思えなかった。
街が活気づいて街の人々の表情が明るくなればなるほど、あの暗くて惨めでどこにも救いようのない不条理な「戦い」は人々の心の奥へ奥へと押し隠されていくように感じた。
そう感じて、
人や人の社会に対してますます怖気づいてしまった。
生まれついての小心とか弱気はしょうがない。
それなのに、そのうえ、あの暗くて惨めでどこにも救いようのない不条理な「戦い」なんか見てしまったら、どうしようもない、
人や人の社会は怖い、外にでるのは怖い、
そう感じて、
すっかりの引き篭もりとなった。
まあいくらかこじつけで大げさだったとしても、たいがいにそんな気分となった。
どこにも居どころなんかない、ただ時化たグズグズの気分となっってしまった。
パティ・ページの「Tennessee Walz」は、いっときでもそんな気分を救ってくれた。
どこにも居どころなんかなしのこっちに、ここだよ、ここに来ればいいよ、ここが「ふるさと」だよって、遥か遠くテネシーへと誘ってくれた。
エルビス・プレスリーの「It’s Now Or Never」は、いっときでもそんな気分を救ってくれた。
ただ時化たグズグズのこっちに、ここだよ、ここに来ればいいよ、ここに来れば「そんな気分なんか思いっきり晴れるよ」って、遥か遠く紺碧の地中海へと誘ってくれた。
それでも、相変わらずの引き篭もりだった。
そんなとき、あのアメリカに、颯爽とあの「ケネディー」が現れた。
強く冷え込む1月のワシントン、
聖書に左手をおいて宣誓する「ケネディー」、
あの John Fitzgerald "Jack" Kennedy は、自信に満ち理知に溢れ優美に包まれていた。
そしておおきくひろく世界に向けて呼びかけた。
ー 我が同胞アメリカ国民よ、国が諸君のために何が出来るかを問うのではなく、諸君が国のために何が出来るかを問うてほしい。・・・世界の友人たちよ。アメリカが諸君のために何を為すかを問うのではなく、人類の自由のためにともに何が出来るかを問うてほしい。・・・最後に、アメリカ国民、そして世界の市民よ、私達が諸君に求めることと同じだけの高い水準の強さと犠牲を私達に求めて欲しい。
ああ、これで外へ出ていける。
ケネディーは世界へ呼びかけている、
ケネディーは引き篭もっているこっちにまで呼びかけている、
世界のすべての人に一緒に考えて一緒に行動しようって呼びかけている、
ああ、これで外へ出ていける、
ああ、これで引き篭もりは終わりだ、
これで、普通に生きていける、
ほんとうにそう思った、そう思えた。
そして、これがその最初で最後だった。
ケネディーは「最後に、アメリカ国民、そして世界の市民よ、私達が諸君に求めることと同じだけの高い水準の強さと犠牲を私達に求めて欲しい。」
って願い、呼びかけた。
でも、アメリカ国民も世界の市民も、その高い水準の強さと犠牲を示すことはできなかったし、しなかった。
そしてあの「はじめての宇宙中継」の日、
暗殺者の銃弾はケネディーの頭部を撃ち抜いた。
あの自信に満ち理知に溢れ優美に包まれていたケネディーがそこで果てた。
あのケネディーの願いも呼びかけもそこで果てた。
これは大きかった、
大きすぎるほど大きかった、
こっちにも、
また、引き篭もりだ、
また、外へでる気力も失せた、
また、引き篭もりにあと戻りだった。
それからもうずっとずっと後だった。
「ジャズ」がある、
「ジャズ」だったら、なんとか外にでることができるかもしれない、
「ジャズ」のピアノ弾きでこの世を渡り歩いていけるかもしれない、
「ジャズ」だったら、なんとか生きていけるかもしれない、
なんて思いはじめたのは。
・・・
・・・
・・・
さあ、ルート55号に乗った、
さあ、いよいよニューオリンズだ。
「ジャズ」をやりはじめてからも、ずっと迷っていた。
ほんとうに「ジャズ」か、
ほんとうに「ジャズ」で生きていけるか、
ほんとうに「ジャズ」でいいのか、
「ジャズ」ならニューオリンズか、
ニューオリンズに行けば、なにか見つかる、なにかがわかる、
ニューオリンズに行けば、迷いから解放される、
ニューオリンズに行けば、なにかしれないけど決着はつく、
そう思ってのニューオリンズだ。
さて、そろそろその決着とやらをつけに行くか・・・