「契機」

 

 

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人間は必然の〈契機〉があれば意志とかかわりなく千人、百人を殺すほどのことがありうるし、 〈契機〉がなければ、たとえ意志しても一人だに殺すことはできない。そういう存在だと云っているのだ。それならば親鸞のいう〈契機〉(「業縁」)とは、どんな構造をもつものなのか。ひとくちにいってしまえば、人間はただ、不可避にうながされて生きるものだ、と云っていることになる。もちろん個々人の生涯は、偶然の出来事と必然の出来事と、意志して選択した出来事にぶつかりながら決定されてゆく。しかし、偶然の出来事と、意志によって選択できた出来事とは、いずれも大したものではない。なぜならば、偶発した出来事とは、客観的なものから押しつけられた恣意の別名に過ぎないし、意志して選択した出来事は、主観的なものによって押しつけた恣意の別名にすぎないからだ。真に弁証法的な〈契機〉は、このいずれからもやってくるはずはなく、ただそうするよりほかすべがなかったという不可避的なものからしかやってこない。一見するとこの考え方は、受け身にしかすぎないとみえるかもしれない。しかし、人が勝手に選択できるようにみえるのは、ただ、彼が観念的に行為しているときだけだ。ほんとうに観念と生身をあげて行為するところでは、世界はただ不可避の一本道しか、わたしたたちにあかしはしない。そして、その道を辛うじてたどるのである。このことを洞察しえたところに、親鸞の〈契機〉(「業縁」)は成立しているようにみえる。
(「最後の親鸞吉本隆明著 ちくま学芸文庫
 
 
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「私たちの主観的な自覚は、意識上に浮かんできた断片的な情報を説明しようとする左半球のあくなき追求から生まれてでている。『浮かんできた』と過去形で表現しているように、これは後ずけの解釈プロセスだ。インタープリターは、意識に入り込んできた情報からしかストーリーを紡ぐことはできない。意識は時間のかかるプロセスだから、意識にのぼったことはすべて過去のできごとだ。既成事実である。
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これらはすべて進化の過程で選択された情報システムだということだ。たまたまそれを持っていた個体が、生存と生殖を勝ちとることができた。そして私たちの祖先となったのである。」
「行動の道筋を定める作業は自動的かつ決定論的だ。それをある時点でモジュール化して推進するのは一つの物理系ではなく、数百、数千、いや数百万の物理系である。実行された一連の行動は意志的な選択のように見えるが、実は相互に作用する複雑な環境がそのとき選んだ、創発的な精神状態の結果なのだ。内外で生まれる相補的な要素が行動を形づくっている。脳という装置はそうやって動いているのである。下向きの因果関係は私たちを惑わせるだろう。ジョン・ドイルが言うように、『原因はどこにある?』とつい探りたくなる。しかし実際は、常に存在しているいくつもの精神状態と、外からの文脈の影響力がぶつかりあっているなかで、脳は機能している。そのうえで、私たちのインタープリターは『自由意志で選択した』と結論づけているのである。」
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(「〈わたし〉はどこにあるのか ガザニガ脳科学講義」 マイケル・S・ザガニガ著
藤井留美訳 紀伊国屋書店刊)
 
  

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思考とは、何らかの事象や目標などの対象について考える働きまたは過程の事であり、対象となるものの意味を知る、または意味づけを行うことで働かせる理性的な脳や心の作用を言う。これには二つの意味がある。

広義には「心」が動くことそのものを言い、「内化された心像・概念・言語を操作すること」である。このような意味では、思考とは、心の中で自発的につくられた観念が、時間の経過とともにそれぞれが連鎖し変遷する「心的過程」のひとつと言うことが出来、人間は常に何かを思考している。逆に思考をしないためには心を空にする特別な修練を積む必要がある。

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(「思考」の抜粋 出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia))
 
  

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思考と呼ばれるものはつまりは抽象的認識であって、 脳に与えられた単なるデータ(客観)に過ぎず、それ自体が自発的行為を生み出すことはありえない。各自の生まれつきの性格に基づき、知覚による直接的認識と、概念による抽象的認識により与えられた動機を比較衡量し、最終的に行為は必然的に発生する。ゆえに、我々が何らかの行為を行う限りにおいての自由意志は全くの幻想であり、これを完全に否定している。羽虫に光が与えられれば火の中であろうと飛び込まない自由意志は無く、石に物理的衝撃が与えられれば転がらない自由が無いのと同じように、人間の行為は必然的に発生するのである。

・・・

人間の認識作用によって幾分かでも世界の本質である意志の性質を把握できるのは、行為(つまり意志の現象)を行った後で、自らの行為についての反省、すなわち自らの行為を抽象的に再認識するというプロセスを経なければならない。これにより意志が自らを否定し、意志が意志としての活動を停止することが起きうるという。それが仏教で言う涅槃や、聖者と呼ばれる人々の内面に起きた、人類に起きうる最も高貴な精神状態である、と説明されている。彼の哲学では、人間の自由はこの点にのみ認められている。なぜなら意志が意志としての活動をする限り、行為は動機に基づいて必然的に発生し、概念による抽象的動機に基づく行為が「自由意志」であると表面上思われるのは、じつは錯覚に過ぎないからである。

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(「意志」『ショーペンハウアー』の項の抜粋 出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)) 

 
 
 
 
 
「人は、常になにかを思考している。」
 
人は、「不安」におそわれると思考する。
人は、「不安」におそわれると思考するしかない。
  
 
 
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「不安」とは「恐れているものに心惹かれている」ことである。
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(「不安の概念」キルケゴール) 

   

 
人は、「自然」への「不安」から自然を疎外したが、「自然」は泰然自若としてあるだけで、「不安」は解消されない。
人は、自然への不安からのがれるため、自然を超える「神」を観念したが、「神」は沈黙するだけで、なお不安は解消されない。
人は、「神」への不安から「神」を疎外して「神」の預託を観念したが、その預託はその解釈を巡る宗派の乱立と抗争を招くだけで、なお不安は解消されない。
 
 
近代は、「自然」と「神」の疎外によっても消えない不安から、人が人みずからを疎外したものである。
 
近代は、人には「自我」と「理性」があると観念して、人の身体と精神を疎外した。
 
近代は、人の身体と精神を疎外して、人を主体としての「個人」と表象した。
近代は、人を「個人」と表象することで、その心に「個人幻想」と「対幻想」を表出させた。
 
「個人幻想」は、「自己を恐れながら自己に惹かれる」という不安を生来させるものである。
「対幻想」は、「相手を恐れながら相手に惹かれる」という不安を生来させるものである。
 
近代は、人は「理性」によって「理念」を抽出観念できるとし、その「理念」に基づく権力装置である法と国家の「共同幻想」を表出させて広く流布した。
 
近代の「共同幻想」は、権力を背景に「共同体」の構成員にそれへの従容を促し、その従容に応じて利益を付与するものであるから、その構成員に「その共同幻想を恐れながらその共同幻想に惹かれる」という不安を生来させるものである。
 
 
 
 近代では、人はその心に「個人幻想」「対幻想」「共同幻想」を抱えて生きる。
 
その「個人幻想」「対幻想」「共同幻想」は位相をことにして人の心に住まうが、それぞれは相互に影響あるいは侵害しあう関係にあり、ときにそれらは逆立して相克の関係に陥る。
 
人は、「個人幻想」「対幻想」「共同幻想」それぞれの不安を抱えながら、なおそれら相互の影響あるいは侵害によって招来される不安に苛まされ、さらにはそれらの逆立と相克によって招来される不安に強く深く苛まれる。
 
 
近代では、人はこれらの不安に脅かされて思考する。
近代では、人はこれらの不安に脅かされて思考するしかない。

 

 

人は、「逆に思考をしないためには心を空にする特別な修練を積む必要がある。」

 
  
 
 
 
「思考とは、内化された心象・概念・言語を操作すること」である。
 
人の「内化された心象・概念・言語」は、いずれも限定的であり偶然的なものである。
 
近代は、「理性」は人の「反省」や「弁証」によってその限定と偶然が捨象された無限定の純粋の普遍的観念を獲得できると主張するが、その「反省」や「弁証」なる心の動きそれじたいが限定的で偶然的なものであって矛盾であるし、まして「理性」を認めるのがその「理性」であるのであれば、それはそもそもの自己撞着であり、虚妄である。
 
近代においても、人の「思考」は、なお、そのいずれもが限定的で偶然的な「内化された心象・概念・言語を操作すること」である。
 
 
 
「思考とは、心の中で自発的につくられた観念が、時間の経過とともにそれぞれが連鎖し変遷する『心の過程』のひとつ」である。
 
 
人の精神状態は「脳の一つの物理系ではなく、数百、数千、いや数百万の物理系が相互に複雑に作用する、そのときどきの創発的なもの」である。
 
人の「思考」は、その精神状態のなかで、「一定の時間の経過とともに、限定的で偶然的な内化された心象・概念・言語を操作すること」であって、その時間の経過の道筋は一つである。
 
人は、それとは別の時間の経過の道筋をたどって、別様に思考することができる。
 
人は、別の時間の経過の道筋をたどることによって、幾つもの思考を別様に重ねることができる。
 
 
近代は、人には「理性」があり、限定的で偶然的な「思考」は「反省」や「弁証」によって無限定の純粋の普遍的「思考」を獲得できると主張するが、観念と同様、その「反省」や「弁証」なる心の動きそれじたいが限定的で偶然的なものであって矛盾であり、まして「理性」を認めるのがその「理性」であるのであれば、それはそもそもの自己撞着であり、虚妄である。
 
近代においても、人の「思考」は、なお「一定の時間の経過とともに、限定的で偶然的な内化された心象・概念・言語を操作すること」であり、その「思考」の道筋は別様にあってもそれらは相互に同位のものであり、人が「観念的に行為」している限りにおいて、それは「自由に選択」できるものである。
 
 
 
 
「行動の道筋を定める作業は自動的かつ決定論的である。」
 
「思考と呼ばれるものはつまりは抽象的認識であり、観念的な行為であって、それは 脳に与えられた単なるデータ(客観)に過ぎず、その思考の自由な選択ができるとしても、その思考自体が自発的行為を生み出すことはありえない。 」
 
 
 「行動は意志的な選択のように見えるが、実は相互に作用する複雑な環境がそのとき選んだ、創発的な精神状態の結果なのだ。内外で生まれる相補的な要素が行動を形づくっている。脳という装置はそうやって動いているのである。」
 
 
人の「主観的な自覚は、意識上に浮かんできた断片的な情報を説明しようとする左半球のあくなき追求から生まれてでている。『浮かんできた』と過去形で表現しているように、これは後ずけの解釈プロセスだ。インタープリターは、意識に入り込んできた情報からしかストーリーを紡ぐことはできない。意識は時間のかかるプロセスだから、意識にのぼったことはすべて過去のできごとだ。既成事実である。」
 
「これらはすべて進化の過程で選択された情報システムだということだ。たまたまそれを持っていた個体が、生存と生殖を勝ちとることができた。そして私たちの祖先となったのである。」
 
 
 
 
人は、行動した後にみずからの行動を解釈するだけである。
人は、行動した後に、「みずからの生存と生殖を勝ちとるため」、脳のインタープリターによって後ずけの解釈を行うだけである。
 
 
 
近代は、「意志の自由」につき、「理性」によって「恣意の意志選択」を排して「合理的で普遍的な意志選択」をなしうるとし、人の「行動の自由」においても「恣意の行動選択」を排して「合理的で普遍的な行動選択」をなしうるとし、それを「行為」と表象してその「行為」に対する「責任」を負荷して共同体の秩序維持をはかろうとするものであるが、虚妄である。
 
 
 
 
 
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「それは太陽のせいだ」
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(「異邦人」アルベール・カミュ著 窪田啓作訳 新潮文庫

 
ムルソー」は、もはやみずからの生存と生殖を放棄している。
ムルソー」は、脳のインタープリターの後ずけの解釈を放棄している。
ムルソー」は、弁明しない。
ムルソー」は、じぶんを「異邦人」として排除する近代の「理性」の虚妄を嘲笑った。
 
 ー それは太陽のせいだ。
 
 
 
 
 
「人間は必然の〈契機〉があれば意志とかかわりなく千人、百人を殺すほどのことがありうるし、 〈契機〉がなければ、たとえ意志しても一人だに殺すことはできない。そういう存在だと云っているのだ。それならば親鸞のいう〈契機〉(「業縁」)とは、どんな構造をもつものなのか。ひとくちにいってしまえば、人間はただ、不可避にうながされて生きるものだ、と云っていることになる。もちろん個々人の生涯は、偶然の出来事と必然の出来事と、意志して選択した出来事にぶつかりながら決定されてゆく。しかし、偶然の出来事と、意志によって選択できた出来事とは、いずれも大したものではない。なぜならば、偶発した出来事とは、客観的なものから押しつけられた恣意の別名に過ぎないし、意志して選択した出来事は、主観的なものによって押しつけた恣意の別名にすぎないからだ。真に弁証法的な〈契機〉は、このいずれからもやってくるはずはなく、ただそうするよりほかすべがなかったという不可避的なものからしかやってこない。」
 
 
 
 
自然は、必然で不可避の「契機」という人の運命の陥穽を設えている。
 
神は、必然で不可避の「契機」という人の運命の陥穽を設えている。
 
近代は、近代みずから、必然で不可避の「契機」という人の運命の陥穽をいたるところに設えている。
 
近代では 、人は、その近代が招く不安に苛まれて、その近代みずからがいたるところに設えた、必然で不可避の「契機」という人の運命の陥穽に陥る。
 

 

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「権力は、雑多な性的変種を生産し固定する。近代社会が倒錯しているのは、そのピューリタニズムにもかかわらずというのでもなく、またその偽善の反動によってでもない。それは現実に、かつ直接的に倒錯している。」

「中世以来、西洋世界においては、権力の行使は常に法律的権利において表現されていた。」が、近代社会は「法律的権利によってではなく技術によって、法によってではなく標準化によって、刑罰によってではなく統制によって作動し、国家とその機関を越えてしまうレベルと形態において行使されるような権力の新しい仕組み」である。

近代「資本主義が保証されてきたのは、ただ、生産機関へと身体を管理された形で組み込むという代価を払ってのみ、そして人口現象を経済的プロセスにはめ込むという代償によってのみ」である。

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(「性の歴史Ⅰ 知への意志」 ミシェル・フーコー著 渡辺守章訳 新潮社)

 

 

 

「近代は、現実に、かつ直接的に倒錯している」

 

近代の「理性」は、「人の生存と生殖」に関わる「自然本能」を直接的に理念化できない。

「人の生存と生殖」に関わる本来的な経済もまた理念化できない。

 

近代資本主義という共同幻想は、「利子」の公認によって推進された。

キリスト教はそれまで倫理に背くとして認めなかった「利子」を承認した。

近代の国家はその「利子」を法的にも認証したが、その本来の倫理からのがれることはできない。

近代資本主義は、その倫理の破綻回避として、近代の国家による経済介入を招来した。

 

近代の国家は、「理性」による経済運営のためとして、人の「雑多な性的変種を生産し固定して」分析し、その分析にもとづいて「生産機関へ個々の人間の身体を管理して組み込み、個々の人間の生殖と死亡を人口統計してそれらを経済的プロセスにはめ込んできた。」

 

近代資本主義は、つぎつぎに人の欲望を掻き立てながらその欲望に見合う物やサービスを商品化してそれらを購入消費させなければならない。

 

近代資本主義は、物やサービスとして、すでに水も空気、さらには宇宙空間にまで手を伸ばし、さらには物やサービスを超えて貨幣そのものをも、およそこの世のすべてを商品化し、国家はそれを野放図に法的認証するまでに至っている。

 

 

人はもはや、近代資本主義と国家によって、その生産・交換・消費の一連の経済的プロセスにすっぽりと嵌め込まれて、他にその居場所を見いだすことも、その不安を癒す場所を見いだすことも困難な状況に押し込まれている。

 

人がそれらの「共同幻想」の軛からのがれて「個人幻想」「対幻想」に寄る辺を求める場所もその不安を癒す場所すらも、近代資本主義と国家の監視、管理のもとにある。

 

 

近代は、これら共同幻想の限界と矛盾の焦慮から、実証的諸科学によってその限界と矛盾からの解放と打破を試みている。

しかし、その実証的諸科学は、「理性」による論理が「どこからでも客観的に始めることができるし、前進することも後退することもともに可能である円環」のものであるという哲学的徹底ということが一切なしに、ただその「理性」の盲信によって推進されているものである。

これら実証的諸科学の行く先は、その煩わしい限界と矛盾を生みだしている人とこの人の世の末法であり、近代そのものの終焉に至るものである。

 

 

 
 
近代は、とうに「理性」の虚妄と限界を悟りつつある。
 
近代は、「理性」の虚妄と限界によって幾度もの戦争を繰り返し、およそ想像すらできないほどの無数の人々を殲滅し殺害してきた。
 
それでもなお近代は、その寄ってたつべき「理性」による、「反省」も「弁証」もしない。
それでもなお近代は、その「理性」の虚構と限界によって、「反省」することも「弁証」することもできない。
 
 
 
 
 
近代は、すでに、近代みずからが設えた、必然で不可避の「契機」という人の運命のいくつもの陥穽に、近代みずからあげて、あまねく深く陥落している。