「戦争」


 

 

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 戦争が原則として違法化されている今日、戦争に関する国際法戦時国際法)においては、従事する国家の政府は、一定の権利義務が定められている。具体的には

  • 敵戦力の破壊および殺害
  • 中立国の船舶に対しての国防上の要請から、もしくは戦時禁制品の取り締まり等のための海上封鎖、臨検や拿捕
  • 捕虜の抑留
  • 占領地では軍政を敷いて、敵国民やその財産についての一定の強制措置

などである。

これらの権利のうち最も重要なのは敵国の艦隊や港の封鎖を政府が宣言する権利である。叛乱者や革命家は交戦団体となるまでこの権利を保有しない。これら非政府・反政府勢力による紛争をめぐる情勢が叛乱から内乱に移ったことが明らかとなった場合のみ交戦権が認められる。しかし、交戦権を付与する明確な規則については今日、存在していない。

 

交戦権を「戦争の主体となる立場」と規定する場合、交戦権を持つのは、国および交戦団体となる。戦争は、一般に国と国との間で行われるものであるため、戦争の主体となりうる集団として、まず国を挙げることができる。ほかに、政府の転覆を目指す集団が転覆対象国家に対して戦争を起こす場合、あるいは国の一部の分離独立を目指す集団が旧帰属国家に対して戦争を起こし、その集団が「交戦団体」と認められた場合には、国に準じて交戦権を付与されるとされる(→国家の承認)。

ただし現在の国際法上の慣行では、戦争を「戦時国際法が適用される状態」と定義するため、戦争の当事者の資格についてはあまり考慮されない。国家や交戦団体による戦争のほか、同一国内での内戦・占領軍に対して行われる抗議的軍事行動(レジスタンス運動)などにも戦時国際法が適用されると解されている。そのような点からも、交戦権を「戦争の主体となる立場」と規定することには、あまり意味がなくなりつつある。

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(「交戦権」の抜粋 出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia))

 

 

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近代の戦争は、近代の虚構と限界がもたらすものである。

近代の戦争は、近代の虚構と限界を隠蔽するものである。

近代の戦争は、近代の維持存続の倨傲と虚妄である。

 

 

 

近代は、人の「理性」の存在とその「理性」による治世の正統性を信仰する。

 

 

この世の多くの人は、古来、自然と神を崇拝し怖れながらそれらに従容してきた。

この世の多くの人は、古来、祭祀と信仰によって自然と神への崇拝と怖れに従容してきた。

 

ある人たちは、その自然と神への従容を肯んじなかった。

ある人たちは、人の精神のうちに、人の主体を確立しうる「理性」があると措定した。

ある人たちは、この「理性」によって自然と神への従容から遁れでて、人が主体となってこの世を治めることができると措定した。

 

しかし「理性」の存在を認めるのがその「理性」であれば、その「理性」の存在はつまるところ信仰である。

  

近代は、この「理性」の信仰者たちによってこの世に流布された信仰である。

 

「理性」が信仰であれば、自然と神への信仰と同様、その信仰はいつも揺らぎと喪失の怖れに晒されてある。

 

近代は、その維持存続のため、揺らぎと喪失の怖れのある「理性」への信仰をよりふかめて、それをこの人の世になおひろく流布して浸透させなければならない運命にある。

 

近代は、「理性」が、ある人たちだけでなくこの世のすべての人の精神のうちに存在するものとして「理性」への信仰をふかめさせ、それをこの世にひろく流布させ浸透させるべくはかった。

 

近代は、「理性」が信仰であり、その信仰はいつも揺らぎと喪失の怖れに晒されてあることを感知している。

近代は、「理性」が信仰であり、その信仰はいつも揺らぎと喪失の怖れに晒されてあることによって、人の世の秩序が乱れその崩壊に至る怖れを感知している。

 

近代は、「理性」への信仰だけによって治世することはできないことを承知している。

近代は、人の世を治めるため、近代のほか同様、人の世の規制とその規制を実効させる実力を要することを承知している。

 

近代は、「理性」への信仰のもとにあることから、人の世を治めるためのその規制と実力がなおその「理性」によるものであることを示して、その正統性を獲得しなければならない。

 

近代は、人には「理性」があるにもかかわらず、なおその「理性」に反する人の言動を規制するものであるからその根拠は「理性」にあるとし、それを「法」と表象して、その「法」による規制の正統性を信仰した。

 

近代は、その「法」を実効あらしめる実力装置を「国家」と表象して、その実力の行使の根拠もまた「理性」にあるとして、その「国家」による実力の正統性を信仰した。

 

 

この世のすべての人に「理性」があるのであれば、なおその「理性」に反する人の言動もまたこの世のすべての人においてありうるものであるから、それを規制する「法」もまたこの世のすべての人に適用される普遍のものであるはずである。

しかし、古来から「法」は時代と地域を異にして様々に存在しているところ、近代の「法」もまた種々様々にあるものである。

 

近代の「法」は、その「理性」の虚構と限界を示すものである。

 

この世のすべての人に「理性」があり、その「法」がこの世のすべての人に適用される普遍のものであれば、その「法」を実効あらしめる実力装置もまたそのすべての人を包括する国家にあるべきものである。

しかし、古来から「国家」は時代と地域を異にして様々に存在しているところ、近代の「国家」もまた種々様々にあるものである。

 

近代の「国家」はまた、その「理性」の虚構と限界を示すものである。

 

 

畢竟、近代の「法」と「国家」は、「理性」の存在とその理性による治世を正統性の信仰を維持存続させるために観念された、まさにその信仰の防御装置であり、それはまた「理性」の虚構と限界を示すものである。

 

近代は、「法」が破られ「国家」が崩壊すれば「理性」への信仰が失われて、近代そのものが消滅する運命にある。

 

近代は、「理性」の存在とその理性による治世を正統化するため、この世のすべての人に適用されるべき「法」の制定とこの世のすべての人を包括する「国家」の定立をはかってきたが、その「理性」の虚構と限界によって果たせない。

 

近代は、「理性」の存在とその理性による治世を正統化するため、すでに制定した「法」の遵守と定立した「国家」の維持存続をはかるしかない運命にある。

 

近代は、「理性」の存在とその理性による治世の正統化やすでに制定した「法」と定立した「国家」の維持存続が脅かされば、それらを守るため、武力ほか各種の「戦争」を行うしかない運命にある。

 

近代は、そのよすがとする「理性」と「戦争」が相矛盾するものであり、「戦争」がその勝敗にかかわらず「理性」の喪失と敗北であり、それが近代の虚構と限界を意味するものであることもまた承知している。

 

近代は、それゆえに、戦争の戦端を開かざるを得ない場合において、そこに意味される近代の虚構と限界を隠蔽するため、なおそこにおいても「理性」が残っていると姑息弁明するための「戦時国際法」なるものを規定している。

 

その「敵戦力の破壊および『殺害』」は、この世のすべての人に「理性」がありこの世のすべての人が「主体」であるとする近代が、人を客体としてその殲滅殺害を「権利」と表象するものであり、それは「理性」の否定にとどまらない、まさにそれは近代の「狂気」のさまを示すものであり、近代みずからの自己否定である。

 

近代の戦争は、その「戦時国際法」なるものによって、近代の虚構と限界を隠蔽して戦端を開き、その僥倖勝利によって、なお近代の維持存続を倨傲する虚妄である。

 

 

 

 

近代の戦争は、近代の虚構と限界がもたらすものである。

近代の戦争は、近代の虚構と限界の隠蔽である。

近代の戦争は、近代の維持存続の倨傲と虚妄である。