ジャズ⑨
女は壁側に向って微かな寝息をたてていた。
寝入るとき胸もとまで引っ張り上げたシーツは太ももあたりにしどけなくまとわっていた。
ぱっさりとした栗色の髪が耳たぶから頬へ頬から口元へ流れ落ちている。
やわらかなうぶ毛がうなじから肩へ肩から腰へ豊かに波打つラインを煌めかせている。
いまここにそのまんま生きている。
蛇口の音には気をつけた、
起こさないよう、
ゆっくりちいさく捻った、
でも安モーテルの安作りだ、
しょうがない。
一杯飲み干してベッドに戻ろうとすると
ー Good,
Evening ?
まだ眠たげな瞼の奥の瞳は真直ぐに澄みきって、
ほんのりした笑みが浮かんでいた。
またベッドへ戻ると、
女はクスりと笑って足元のシーツを引っ張りあげて、
素っ裸の二人はもう頭まですっぽりと包まれた。
二人して抱き合い、絡み合って、あちこちと身体を弄り合った。
とっくに人の心のあれこれにはうんざりしていた。
とっくに人の言葉や文字のあれこれにはうんざりしていた。
過ぎたことがどうだとか、
これからがどうだとか、
もううんざりだった。
ただ「いまここでそのまんま生きる」だけだ。
ただ二人抱き合い、絡み合う、
いまここでそのまんま生きている。
もういちど、あの懐かしい「テネシー」に深く入っていった。
ふと目覚めると、
濡れた髪をタオルでかきあげしていて、
濡れた身体にはバスタオルが造作なさげに巻かれていた。
ー ユー ワナ ゴウ サムウエア ?
しばらく間があって、
ー No.
ー ユー ゴーバック ホーム ?
ー No.
ー I'm always staying in Tennessee.
そう聞こえた、
「Tennessee」って、そう聞こえた。
もう尋ねることはなかった。
素肌にふわりとワイシャツをはおると、
””
I was dancing
with my daring
・・・
ちいさくいたずらっぽくハミングしながら、
ー Give me a hug.
柔らかにしっかり抱きしめた。
わずかに眼をあげるその頬に手を添えようとすると、
ちょいと小首傾げをして、あたたかな頬が手のひらにぽたと落ちた。
傾げられた額にかるく口をつけた。
ー Drop me here.
ダウンタウンのすこし手前の交差点近くだった。
「グッバイ」ってやつはナシってきめていた、
ー オーライ
ー ユー ジャスト ビー ウエル
「ごきげんよう」だったら「Be well」かなってとこだった。
女はドアを開けて、
すこし間をおいて振り返り、
澄んだ瞳をふっと和ませて、
ー Bye for now.
そのまま建物の角に向かって曲がって消えた。
なまえは聞かなかった。
「いまここでそのまんま生きている」から、
なまえは聞かなかった。
こっちの胸にいつもずっと「いまここでそのまんま生きている」
だから、なまえは聞かなかった。
車をターンさせてニューオリンズに向かうことにした。