「科学」


 

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ヘーゲルが、エンチクロぺディーの第三版の終わりで、理念の各形態がある場合には全推論の両項にもなりまた他の場合にはその中間にもならねばならないことを証明したことによって永久に終わりを告げたのではあるが。つまり、このことを理解すれば、どこからでも客観的に始めることができるし、前進することも後退することもともに可能である。円環はあくまでも同じものとしてある。これが弁証法的な見方の本来の秘密である。

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大学においては思弁を本腰にやらなければならない、もしそうでないなら、誠に寒心に堪えない結果が生ずるであろう。というのは大学においてもまた哲学の講義は衰微してしまって、そのために哲学的徹底ということが一切なしに、ただ実証的諸科学が教授されることになり、するとこの実証的諸科学の粗雑さをよいことにして、偏狭な専門家や神学的な文字の奴隷どもが学問の黄金時代を築くことになるのだろうからである。
 
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(「哲学入門」ー「編者の序言」 ケーニヒスベルク 一八四〇年四月四日  カール・ローゼンクランツ著  岩波文庫 岩波書店刊)
 
 
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僕が七〇年代の問題を何によって象徴するかというと、簡単なことで、サッポロが「ナンバーワン」というペットボトルに天然水を詰めて売りに出したのが七〇年代の初頭だったんです。僕は、そういう些細なことをものすごく大きな象徴として捉えたのだと思います。
なぜかというと、マルクスなんかの古典経済学の非常に大きな原則というのは、天然水と空気は使用価値はあるけど交換価値はゼロだということです。そんなのは売れもしないし、どうにもならない。・・・せいぜいこれは特別に飲みたいと思う人とお酒を飲みたい人だけに留まるだろうというのが僕の予測だったんです。
ところが冗談ではなくて、今や大変なことになった。一つには日本の自然水が生活環境に汚染されたということも少しはあったのかもしれないけど、爆発的に普遍化したのは、僕は事件だと思ったんです。これで古典経済学はちょっと修正を要するぜ、というのが僕の印象なのです。・・・それから空気清浄機というのも出来たけど、空気も汚染されてきて、これもただでなくなるというふうに思えてきた。これは古典経済学の大転換で、修正を要するということの象徴です。
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産業の一循環の速さというのは、人間心理の速度を規定する。それとひどく違うところにいるところにいる住民は巨悪をやったりすることになるから、そういうのを調べたらどうかと言ったんです。心理の速度がなぜ産業の速度と食い違うかということです。そうすると、枠が外れて巨悪が起こったり、東洋で言えば肉親、家族、親族を主体として犯罪が起きたり、子どもが親友同士でいじめあったり、年寄りで言えば孤立感が深まってくるということです。
 
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(「貧困と思想」ー 二「肯定と疎外」 吉本隆明著 青土社刊)
 
 
 
 
 
 
人間は「自然」への崇拝と怖れから「自然」を疎外した。
人間は「自然」への疎外によって「自然」の包摂から逸脱して「自然」から疎外された。
 
人間は「自然」を超越する「神」を措定して「自然」の包摂への回帰と「自然」の疎外からの克服を試みたが果たせない。
 
人間はみずからには「自我」があり「思考」できるとして「自然」のなかでの「主体性」を措定した。
人間はその「思考」による「自然」の解析と統合で「自然」の包摂への回帰と「自然」の疎外からの克服を果たせるものと信仰した。
 
 
 
 
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 「有(Sein)は単純な内容のない直接性である。その対立は純粋無(reines Nichta)であり、両者の統一は成(Werden)である。無から有への移行は生起(Entstehen)であり、その逆は消滅(Vergehen)である。」 
 
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(「哲学入門」ヘーゲル著 武市健人訳 岩波文庫 岩波書店刊)
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「自然」は「おのずからある」ものであり、「単純な内容のない直接性である」ところの「有」である。
 
「自然」に「無」はない。
 
 
「思考」は「自然」にはない「無」の観念を導入して、身体が受感する「目の前にある状況」を言葉や文字や論理として表象して「架空」するものであり、その「思考」によって創造される物も観念もまた「架空」のものである。
 
 
人間の身体が受感する「目の前にある状況」は「自然」ではない。
人間にとっての「目の前にある状況」は「有限性」と「偶然性」に依存する身体の「感性」によって把握される「架空」である。
 
人間の言葉や文字や論理は、精神による「自然」の分断と断片の表象という「架空」である。
 
「思考」は「架空」であり、その「思考」によって創造される「物」「観念」もまた「架空」である。
 
 
 
「思考」は人間が「自然」にはない「無」の観念を導入して「架空」するものであり、「どこからでも客観的に始めることができるし、前進することも後退することもともに可能である。円環はあくまでも同じものとしてある。」ものであり、「自然」にたいして「閉じられた」ものである。
 
 
人間は「思考」によって「自然」を解析し統合することはできない。
人間は「思考」によって「自然」の包摂への回帰も「自然」の疎外からの克服も果たせない。
 
 
 
近代は、人間の「思考」についての「哲学的徹底ということが一切なし」に、「ただ実証的諸科学が教授されることになり、するとこの実証的諸科学の粗雑さをよいことにして、偏狭な専門家や神学的な文字の奴隷どもが築いてきた学問の黄金時代」である。
 
 
 
 
人間は、人間が自然をみずからのものと僭宣して居座る「目の前にある状況」を「占有」と表象して自然と人間を疎外した。
人間は、人間が自然から創造した物をみずからものと僭宣して力を振るう「目の前にある状況」を「所有」と表象して自然と人間を疎外した。
人間は、人間が物を交換して差分を得る「目の前にある状況」を「経済」と表象して自然と人間を疎外した。
 
 
 
 
「価値ある物」は自然にはない。
「価値ある物」は「自然」を疎外する「架空」の「占有」「所有」「経済」などの表象観念にもとづいて人間が創造する「架空」の観念であり、なお自然と人間の心身の疎外を深めるものである。
 
「欲望」は「自然」にはない。
「欲望」は人間が自然と人間の心身を疎外して「空」となる精神の人間が創造する「架空」の「価値ある物」への渇望の表象でありそれもまた「架空」である。
 
 
 
これら「架空」の表象によって体系化される「実証的諸科学」の経済学も「架空」である。
 
「実証」もまた人間が「自然」にはない「無」の観念を導入して「架空」するものであり、「どこからでも客観的に始めることができるし、前進することも後退することもともに可能である。円環はあくまでも同じものとしてある。」ものであり、「自然」にたいして「閉じられた」ものである。
 
 
「経済」は自然の疎外によって「架空」される「欲望」を満たすために「架空」の「価値ある物」を創造してその売却により差分を得てまたその得た差分によって「架空」の「欲望」を満たすため「架空」の「価値ある物」を購入する円環であり、「自然」にたいして「閉じられた」ものである。
 
 
 
人間は「実証的諸科学」によって「自然」を解析し統合することはできない。
人間は「実証的諸科学」によって「自然」への包摂の回帰も「自然」の疎外からの克服も果たせない。
 
 
 
近代は、人間の「思考」についての「哲学的徹底ということが一切なし」に、「ただ実証的諸科学が教授されることになり、するとこの実証的諸科学の粗雑さをよいことにして、偏狭な専門家や神学的な文字の奴隷どもが築いてきた学問の黄金時代」であるが、もうその時代の終焉を迎えつつある。
 
 
「実証的諸科学」は人間の「自然」としての身体と精神を根底から疎外する。
 
「実証的諸科学」は人間の「自然」としての身体と精神の安定を損なわせなお「実証的諸科学」が「架空」する「基準」「規定」からの逸脱を宣告して疎外し殲滅するものである。
 
「実証的諸科学」の最後の討ち手である「宇宙工学」による空間侵奪と「AI工学」による時間侵奪は人間の「自然」としての身体と精神そのものを殲滅しその消滅をもたらすものである。
 
 
 
 
近代はもうその終焉を迎えつつある。