「喜劇」

 
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ヘーゲルはどこかで、すべての偉大な世界史的な事実と世界史的人物はいわば二度現れる、と述べている。彼はこう付け加えるのを忘れた。一度目は偉大な悲劇として、二度目はみじめな笑劇として、と。
 
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 人間は自分自身の歴史を創るが、しかし、自発的に、自分が選んだ状況の下で歴史を創るのではなく、すぐ目の前にある、与えられた過去から受け渡された状況の下でそうする。すべての死せる世代の伝統が悪魔のように、生きている者の思考にのしかかっている。そして、生きている者たちは、自分自身と事態を根本的に変革し、いままでになかったものを創造する仕事に携わっているように見えるちょうどそのときでさえ、まさにそのような革命的危機の時期に、不安そうに過去の亡霊を呼び出して自分たちの役に立てようとし、その名前、鬨の声、衣装を借用して、これらの由緒ある衣装に身を包み、借り物の言葉で、新しい世界史の場面を演じようとしているのである。」  
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「有(Sein)は単純な内容のない直接性である。その対立は純粋無(reines Nichta)であり、両者の統一は成(Werden)である。無から有への移行は生起(Entstehen)であり、その逆は消滅(Vergehen)である。」 
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(「哲学入門」ヘーゲル著 武市健人訳 岩波文庫 岩波書店刊)
 
 

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自然は「おのずからある」ものであり「単純な内容のない直接性である」ところの「有」である。
 
自然は万物を包摂するものであり、人間もその万物の一つとして自然に包摂されていた。
 
 
人間は自然への崇拝と怖れからその精神により自然を疎外した。
 
 
人間の身体は自律の生理で保たれる自然としての「有」である。
人間はその身体への崇拝と怖れからその精神によりみずからの身体も疎外した。
 
 
人間はその精神に「自我」がありその「自我」は「思考」するとして自然に対する精神の主体性を崇拝した。
 
「自我」は自然を疎外した人間が自然への反措定として「架空」するものであって「有」ではない。
「思考」は「有」の反措定として「無」を観念して「架空」するものであって「有」ではない。
 
 
人間は「架空」の「自我」や「思考」によって自然への崇拝と怖れからのがれることはできない。
人間は「自我」を強固にすればするほど「思考」を重ねたりすればするほどその「架空」を怖れるようになり、その疎外を深めた。
 
人間は「自我」や「思考」への崇拝とその「架空」への怖れによってその精神を精神によって疎外した。
 
人間の精神によって疎外された精神は「空」であり純粋「無」である。
 
人間はみずからの身体と精神を疎外することで自然から遠く遊離した疎外者となって自然の包摂への回帰のすべを失った。
 
 
 
「思考」は「無」の観念を導入して、身体が受感する「目の前にある状況」を言葉や文字や論理として表象して「架空」するものであり、その「思考」によって創造される物も観念もまた「架空」のものである。
 
 
人間は、人間が自然をみずからのものと僭宣して居座る「目の前にある状況」を「占有」と表象して自然と人間を疎外した。
人間は、人間が自然から創造した物をみずからものと僭宣して力を振るう「目の前にある状況」を「所有」と表象して自然と人間を疎外した。
人間は、人間が物を交換して差分を得る「目の前にある状況」を「経済」と表象して自然と人間を疎外した。
人間は、人間が人間を支配する「目の前にある状況」を「権利と義務」と表象して自然と人間を疎外した。
人間は、人間が自然に立ち入り人間が身体に侵入し精神に立ち入って検見する「目の前にある状況」を「科学」と表象して自然と人間を疎外した。
人間は、自然を超越する神を措定しながらその神を知ろうとする「目の前にある状況」を「宗教」と表象して自然と人間を疎外した。
人間は、人間が空間を線引きしてその空間をみずからのものと僭宣して居座る「目の前にある状況」を「国家」と表象して自然と人間を疎外した。
人間は、人間が人間の出自を線引きして区別する「目の前にある状況」を「民族」と表象して自然と人間を疎外した。
 
 
人間は「目の前にある状況」を表象によって「架空」するものであり、人間にとっての「目の前にある状況」はその「架空」された「状況」であり、それが人間にとっての「現実」という、「生きている者の思考」にとっての「死せる世代の伝統という悪魔」である。
 
 
人間はその「現実」の変革を「思考」するが、その「思考」が同じく表象による「架空」であれば、その「革命」もまた「架空」された「状況」であり、それはまた人間にとっての「現実」という、「次の世代に生きる者の思考」に「死せる世代の伝統という悪魔」としてのしかかっていくものである。
 
 
近代は人間が「自我」と「思考」で演じる劇の最後の舞台であり、人の歴史の最終章である。
 
近代の舞台で演じられる劇は一つであり、それは悲劇でもあれば喜劇でもある一つの悲喜劇である。
 
 
近代の舞台では人間は振り付けることはできない。
人間はその舞台で一つの悲喜劇を演じるだけである。
 
近代の観客席には自然だけが残っている。
 
 
 
 
 
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「死ねば死に切り、自然は水際立っている」
 
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(「夏書十題」から 高村光太郎著)