「自然」

 

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真淵の「国意考」のなかで、もっとも鮮やかにこれをしめすのは太宰春台が『弁道書』で古代日本では「親子兄弟叔姪」が夫婦になって禽獣の行いを平気でやるような態たらくだったが、中華から聖人の道が入ってきてはじめて倫理が確立されたとかいたのに反論した箇処である。なるほど唐には同じ姓は娶らないという掟はあるが、母子相姦の事実も現実にはあった。斯様な事実があったからこそ、掟が必要となったのだ。日本の古代では同母の子は兄弟だが、異母なれば婚姻も可能であったのだ、とのべたあと真淵はつぎのように云っている。

 

また人を鳥獣に異なりといふは、人の方にて我れ褒めに言いて外を侮るものにて、また唐人の癖なり。四方の国を「夷」と賤しめて其の言の通らぬが如し。凡そ天地の際に生きとし生ける物は皆虫ならずや。それが中に、人のみいかで貴く、人の如何なることにあるにや。唐にては、「万物の霊」とかいひて、いと人を貴めるを、おのれが思うに、人は万物の悪しきものとかいふべき。いかにとなれば、天地の日月の代わらぬままに鳥も獣も魚も草木も古の如くならざるはなし。これなまじひに知るてふことの有りて己が用い侍るにより、互いの間に様々の悪しき心の出で来て、終に世をもみだしぬ。また治まれるがうちにも、かたみに欺きをなすぞかし。

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(「吉本隆明全集7ー日本のナショナリズムについて」吉本隆明著 晶文社刊 )

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 自然はその摂理によって、全体の秩序を構成する。

 

自然はその摂理によって、万物に生成消滅変転を加えながらそれらの関係を差配し全体の秩序を構成する。

 

人は精神のうちにある「感性」「悟性」により、自然に手を加え自然を切り出すことで自然の摂理を知り、自然の摂理から自由になれると認識することで自然を疎外し「意思」を獲得した。

しかし自然の摂理から自由になることで失う秩序は人の「意思」によっては構成できない。

人は「感性」「悟性」によって自然を超越する真理=神を措定し、その神の天啓によって人の秩序を構成しようとしたが果たせない。

 

近代は、人の精神のうちに「感性」「悟性」を前提とする「理性」を措定し、その「理性」によって神を遠くに押しやり、その「理性」から生み出される理念が真理であるとし、その理念=真理によって人の秩序を構成しようとした。

 

しかし「感性」「悟性」が人の自然である身体の経験に依存する限定された偶然なものであれば、それらを前提する「理性」もまたその限定性と偶然性から免れることはできない。

「理性」を措定するのがその「理性」であるというのであれば、すでにしてそれは自己撞着であり、その「理性」から理念=真理が生み出されることをその「理性」が認めるというのであれば、同じくの論理破綻である。

畢竟、「理性」から生み出される理念=真理が存在するというその精神のありようは信仰であり、その理念=真理とは近代が創り上げた新たな「神」である。

 

自然を超越する真理としての神であれば、天啓を受ける地上の人はその天啓が構成する秩序に包まれる。

しかし、近代の理念=真理の神であれば、それはあるとしても個々の人にあるものであるから、それによって個々の人の秩序が構成されるとしても、人の共同社会の秩序を構成することにはならない。

 

近代は人の共同社会の秩序を構成するためとして、「感性」「悟性」によって形成される国家、法、科学、経済、倫理、宗教、民族などの「思想」という共同幻想を強靭化した。

しかし、これらの共同幻想はその限定性と偶然性からいずれも秩序構成力として脆弱なものであり、またその同じ範疇にあるものは相対のものであり、またことなった範疇のものはそれぞれに重なりうるものであるから、むしろそれらは人の共同社会のなかでもまた他の共同社会との関係においても対立と相克を齎すものである。

 

近代は人の秩序も人の共同社会の秩序も構成することはできない。

 

近代はその共同幻想によって武力戦争をしかけて無数の人を攻撃殲滅してきたが、なお人の秩序も人の共同社会の秩序も構成できない。

近代はその共同幻想によって経済戦争をしかけて無数の人を攻撃殲滅してきたが、なお人の秩序も人の共同社会の秩序も構成できない。

 

 

 

 

「いかにとなれば、天地の日月の代わらぬままに鳥も獣も魚も草木も古の如くならざるはなし。これなまじひに知るてふことの有りて己が用い侍るにより、互いの間に様々の悪しき心の出で来て、終に世をもみだしぬ。また治まれるがうちにも、かたみに欺きをなすぞかし」