「曾皙」

 

 

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儒と呼ばれる聖人の道は、「天下ヲ治メ民ヲ安ンズルノ道」であって、「私カニ自ラ楽シムニ有ル」所以のものではない。 

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孔子は、道を行うのに失敗した人である。

晩年、その不可なるを知り、六経を修めて、これを後世に伝えんとした人である。

・・・

晩年不遇の孔子と弟子たちとの会話である。

もし、世間に認められるようになったら、君達は何を行うか、という孔子の質問に答えて、弟子達は、めいめいの政治上の抱負を語る。一人、曾皙だけが、黙して語らなかったが、孔子に促されて、自分は全く異なった考えを持っている、とこう対えた、 

「暮春ニハ、春服既ニ成リ、冠者五六人、童子六七人、沂(魯の首都の郊外にある川の名)ニ浴シ、舞雩ニ風シ(雨乞の祭りの舞をまう土壇で涼風を楽しむ)、詠ジテ帰ラン」。 

孔子、これを聞き、 

「喟然トシテ、嘆ジテ曰ハク、吾ハ点(曾皙)ニ与セン」、そういう話である。 

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(「本居宣長(上)」小林秀雄著  新潮社 SHINCHO ONLINE BOOK )

   

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孔子は、「仁、義、礼、智、信」五徳の儒教によって「天下を治め民を安んずる道」を行うことに失敗した。

 

孔子は、儒教という共同幻想によって「天下を治め民を安んずる」ことができると信仰して政治に参画したが、儚く破れて天を仰いだ。

 

不遇の身となった孔子は、なお儒教による政治の希望を語る弟子達にかける言葉が見あたらず、「沂浴詠帰」、ただ自然に浸り詩歌を詠じて楽しむだけだ、と答えた「曾皙」の思想に、嘆息しながらも賛同した。 

 

 

 

 

近代は、人の理性によって「天下を治め民を安んずる道」を行うとするものである。

 

近代は、理性という共同幻想によって「天下を治め民を安んずる」ことができると信仰して政治に参画した。

 

理性は、「感情や欲求に流されることなく、道理や倫理観にしたがって判断したり行動する能力」として人の心の世界に確かにあるものと、この世に広く認識流布されているものであり、それ自体が共同幻想である。

人の心の世界に理性があると認識するのがその理性であるのであれば、畢竟、理性もまた信仰であり、その信仰の流布は共同幻想である。

 

 

共同幻想は、人のさまざまな感覚と感情や物の具象を捨象した、客観と抽象に装われた言葉や文字によって構成される観念として産み出される心の世界である。

そして、それはそうであることによって、この世のどこにでもまたさまざまに作り出され、また広く流布されうるものであり、またそれぞれが相対のものとして乱立するものである。

その客観と抽象の上位階層として国家幻想、法幻想、経済幻想、宗教幻想、 民族幻想などが立ち上がり、その下位階層にはそれぞれの共同体固有の国家幻想、法幻想、経済幻想、宗教幻想などが入れ子となったり絡み合いながらもなおそれぞれが相対として乱立する。

 

 

政治に参画した近代の理性は、その理性によってこれらの入れ子となったり絡み合いながら乱立する相対の共同幻想を整理統御して「天下を治め民を安んずる」べき責めをみずからに任じたものである。

 

しかしながら、理性によって乱立する共同幻想をいかに整理統御してもなおそれぞれの共同幻想の相対とその相克という罠から抜け出ることはできないし、その理性もまた信仰であり、それもまた相対の共同幻想であるという無限の循環の罠から抜け出すことはできない。

 

 

 

個人幻想は、その人のさまざまな感覚と感情を幾重にも織り成した生地から産み出される心の世界である。

 

対幻想は、二人が、それぞれのさまざまな感覚と感情を交互に幾重にも織り成した生地から産み出される同じ心の世界である。

 

共同幻想は、人のさまざまな感覚と感情や物の具象を捨象した、客観と抽象に装われた言葉や文字によって構成される観念として産み出される同じ心の世界である。

 

その自己幻想、対幻想、共同幻想は、人の一つの心の世界に同時にしかしその観念としての位相を異にしながら、またそれぞれがそれぞれの影響を常に受けながら住まい分けしているものである。

人は、その一つの心の世界でありながら、その観念の位相の異なりと住まい分けによって、自己幻想、対幻想、共同幻想を同時に意識に昇らせることはできないし、それらを同時に表現することもできない。

 

また自己幻想、対幻想、共同幻想は、その観念の位相の異なりによって、それぞれが共立し順立をすることもあれば互いに並び立たず逆立することもあるものである。

 

自己幻想、対幻想、共同幻想が人の一つの心の世界でそれぞれ並び立たず逆立することになれば、人はその心の平穏を保つことができない。

 

人の心の世界のなかの自己幻想、対幻想、共同幻想は観念としての優先も優劣もないから、その相対の相克は果てしなく人の心の平穏を乱すものである。

 

この心の平穏の乱れによって、人は「感情や欲求に流されることなく、道理や倫理観にしたがった判断したり行動する」ことができなくなる。

このとき、人の理性は揺るぎ、また人は理性を失う。

そしてまたこのとき人の理性への信仰は揺るぎ、人はその信仰を失う。

 

 

それでもなお、神、自然を疎外しその支配から逃れて、人の理性によって「天下を治め民を安んずる道」を選択した近代はその任を果たすべき宿命にあり、もはや神、自然の摂理にその運命を委ねることはできない。

 

しかしながら、近代がその責任を果たしうる道はほぼなくなりつつあり、近代はそれを明らかに悟りつつある。

 

近代は、武力戦争によって無数の人を攻撃し殲滅してもその責任を果たせなかった。

近代は、経済戦争によって無数の人を攻撃し殲滅してもその責任を果たせなかった。

武力戦争も経済戦争も人の理性によって巧妙怜悧にまた冷酷無比にしかけられたものである。

 

近代は、人の理性の限界を悟りつつある。

 

近代は、そのみずからが信仰であり無限の循環の罠である人の理性を、絶対として「感情や欲求に流されることなく」、絶対として「道理や倫理観にしたがって判断したり行動する能力」とする「純粋理性」に創り替えて、その「純粋理性」によって「天下を治め民を安んずる道」を行うべく企てている。

しかし、その「純粋理性」もまた人の理性によって創り替えられるものであれば、それはやはり無限の循環の罠に囚われた観念であり、この世に夢遊して漂うだけの幻覚である。

 

 

 

 

 

近代は、理性という共同幻想によって「天下を治め民を安んずる」ことができると信仰して政治に参画したが、もうその責を果たすことはできない。

 

その不遇の近代で、なお頑なに理性による政治の希望を語ることは、その理性による人への無理解であり、その無理解の理性による人への冒涜である。

 

 

 

「沂浴詠帰」

 

ただ自然に浸り詩歌を詠じて楽しむだけだ。