ジャズ④

 

 

さっきから気になっていた。

チック・コリアの「スペイン」をやりはじめてインプロに入ったときあたりから、ときおり、トン、トン、と小さな音が聞こえてきて、気になっていた。

 

「スペイン」を弾き終わったところで、まばらな拍手に応えるふうにしてそれとなく薄暗い客席を見まわした。

 

わりとステージに近い丸テーブルの上に透き通るほどに白くて華奢な手が、ぽっと仄かに浮かんで見えて、人差し指がちょいちょいと上下していた、

 

ああ、あれだ。

 

 

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そう思っても相手は客だ、

それ以上はない、

ちょいと居ずまいを整えて、次、キースの「マイ・ソング」に移った。

 

 

 

その夜はほぼ満席の客の入りだったし、客筋もなかなかだった。

 

ーキースだよね、ここで「ケルン」なんてどう?

なんて、からかってくる酔客もいたけど、

 

キース・ジャレットですね、じゃ「カントリー」いきましょう。

って適当にかわすと、結構な具合に盛り上がってくれた。

 

まあ、こっちもひさかたの、弾きまくりジンジン、ってステージだった。

 

 

 

 

 

ホテルに戻ってエレベーターに向かうところで、フロントの男が思わせぶりな目配せをくれたので、ロビーに眼をやった。

 

窓際のソファーに伏し目がちに座っていた人の右の手がわずかに遠慮がちに挙がった。

あの、透き通るほどに白くて華奢な手だった。

 

でもそれっきり、たちあがる気配もない。

 

埒あけに声かけしてみた。

 

ーなんか用でしたか?

 

 

 ーいえ、特にです。

 

と、こちらに向けられたその眼には覚えがあった。

 

たしか以前どこかで、この眼で見られたことがあった、

こっちに向けられたのに思わず後ろを振り返ってしまったあの眼、

あのときの眼だった。

 

でもいつだったかどこでだったか思い出せない。

 

 

 ーええっと、それで、あなたは?

 

 ーあのー、自己紹介はナシってことにしてるんですが、ダメですか?

 

ーうん、それはいいけど、

 どうしてナシか、って話もナシかな?

 

 ーいや、いいですよ、

    まあ、自分で自分のことよくわからない、からかな、

 いや、もうちょいマジにいきます、

 「私、なになにです」なんていう、そういうたぐいの言葉は捨てました、

 ってことで、どうでしょう?

 

 ーうん、とりあえずオーケー、ってことでいいけど、

 前に会ったことありました? 

 

 

ーえっ、ええ、お見かけしたことはあります、

 New Orleansです、Preservationでした。

 

 

あ、そうか、ニューオリンズだったか、

あそこは、まあ、思い出したくない、

とっさにそこはスルーして、ちょっと斜めにふってみた。

 

ーあなた、アメリカ?

 

 ーそれって、国籍とかってやつですか?

 

ーうん、まあ、いや、ニューオリンズとか発音がネイティブっぽかったから。

 

ーさっきお願いしたばかりですけど、

 自己紹介はナシでって。

 

 

 話を変えるしかない。 

 

ー うん、

 で、なんで、わたしに?

 

ー聞いてた通りでした、

   半音はずし、してましたね。

 

 

「マイ・ソング」はキース・ジャレット完コピだから、「ケルン」どう、なんてからかわれたのはいいとして、「半音はずし」か、

 

 

ーあれ、アドリブのところで和音、半音はずしてますよね。

 

ーああ、そこでトン、トン、やってたわけか、

 うん、それで?

 

ーそれで、って、

 だから、いいんです、それで、

 トン、トンで、もうそれでいいんです。

 

 ーなにが?

 なにが、それでいいの?

 

ーなにが、じゃなくて、

 それでオーケーってことです。

 だって、調子はずしのジャズで、もう一個はずしたくての半音はずし、でしょう、

 それに合わせてトン、トン、ってやったんです、

 それでもういいんです。

 

 

いや、こっちはそうでもないかな、

って、言いかけたときの着信音だった。

 

 

 メールの着信なのかスマホをちらっと見ると、

 

ーあ、今日は、これで帰ります、

 それでは、

 ごきげんよう

 

というまに、スッといなくなってしまった。

 

 

 

 

 

部屋に戻って思いっ切りシャワーを浴びた。

 

いつもはこれでスッキリする。

 

今日はジンジンのステージだったから気分は悪くないのに、いまいちスッキリしない。

 

さっきの「半音はずし」か。

 

 それにしてもなんともいいようのない不思議な雰囲気に包まれた人だった。

ほどよくまるく、ほどよく整った顔立ちで、こざっぱりとほどよく髪を刈り上げていて、穏やかな中音のほどよい声質だった。

年嵩とか男なのか女なのかもわからなかった。

 

スッキリしないのはこれだなって思いあたったところで、ついと、あのシーンが浮かんだ。

 

レストランでケイト・ブランシェットルーニー・マーラ をじっと見つめながら、

「あなたって不思議な人ね」、そして、

くっと一呼吸おいて、”Flung out of space”

 

字幕ではたしか「空から落ちてきたよう」ってあった、

それでもいいけど、あのケイト・ブランシェットは格別だ、

あくまで、 “Flung out of space”、ってことにしている。

 

 

ああ、そうか、これじゃないか、

あの「半音はずし」は、”Flung out of space”、じゃないか。

 

 

少し無理な気はしたけど、ほかに思いあたらないからそれでいいか、ってことにした。

 

 

となると、とりあえずスッキリとした。

 

 

 

 

 

シャワーのあとのビールがたまらない。

 

 

今日は、弾きまくりジンジンのステージだった。

 

それに、“Flung out of space”だった。

 

その別れに、

ごきげんよう” だ。

 

 

これはこれは、なんとも気分がいい。