ジャズ②

 

 

 

ホテルでは、部屋に帰ると、着ていたものを一気に脱ぎ捨て、バルブ全開のシャワーをしたたかに浴びて、缶ビールをプシュ、ごくん、プアー、ってコースを鉄板のルーティンとしている。

 

この極めつけのコースは、缶ビールがキンキンに冷えてるとサイコー、となる。

 

今日のはコンビニで買ってきたやつだったから、まずまずっていうしかなかったけど、この稼業だ、このルーティンだけは外せない。

 

 2本目でゆらゆらとなり、3本目をプシュっとやったときには、もうそばのベッドが悩ましげに手招きをはじめていた。

 

せっかくの招待だ、ことわるわけもない。

 

倒れこむとあっという間、心ごと体ごと、もうこれいじょう生き縋ることもないかと思えるほどの勢いで、スー、と深ーく、落ちていった。

 

 

 

隣の部屋に客が入ってきたかなにかの物音で眼が覚めたようだった。

もう、5時をすっかりまわっていた。

ああ、やっぱりあの人は来なかったな、と思えるのにじゅうぶんな時間となっていた。

 

約束してたわけじゃない。

昨日チェックインしたときフロントから、”オースガさんから明日4時というメッセージが届いてます”、といわれただけだ。

 

 

約束なんかまずしないことにしている。

 

たまに心と体をジンジンさせるだけのことだ。

で、そのときだけだ、

まんざらでもない、って思えるのは。

約束なんかして、あとのことに気がいってしまうと、いま、そのときのジンジンもそぞろになってしまう。

 

だから、仕事のほかで約束はしないことにしている。

 

 

たぶんあの人もそう、約束なんかしないんだ。

 

これまで3回ほど”明日何時”なんてメッセージを残すだけだった。

それで、それがあたりまえのように、やってきたことは一度もなかった。

 

こんども来なかった。

 

 

 

 

そんなあの人とは2年ほど前に出会っている。

 

 

雇われたクラブに早入りすると、なにやら事務室あたりが騒がしくてちょっとそば耳をたててみた。

どうやら、前のピアノマンらしかった。

客とトラブってクラブマネージャーから首にされたらしかった。

 

これはひとごとじゃないな、こっちも、ちかごろのわけのわからない客とトラブったからって首になりたくなんかないからな、と一人ごちの思いがフット湧いてしまって、ドアをわざと強めにノックするなりドンと開けて、いきなり言ってみた。

 

ーマネージャー、なんかあったのか

 

 不意を食らったマネージャーはついと眼をそらしてその仏頂面をなお顰めてみせた。

 

数秒の間が抜けてしまって、あれっ、てとまどったところ、こっちに小さなまるい背中を向けたままの男が、誰にいうふうでもなく、ぼそっと呟いた。

 

ーいいんだよ、

 俺のことだ。

 

それがあの人だった。

業界ではそれなりに知られた、”オースガ”って名乗ってる、そのときにはもう老残しきりの男だった。

 

 

次の日、2回目のステージが掃けて裏口から帰ろうとしたとき、暗がりのなかに昨日の小さなまるい背中がほの見えた。

首をちょっと左に傾げて、人差し指と親指で丸括弧をつくった左手首をクイッと手前に返すと一人スタスタ歩きはじめた。

 

察しはついた。

 

ジジッ、ジジッと音立ててまだ生きてるぞってさまのネオンが、表玄関ドアになんとか引っ掛かりしている、こじんまりのショットバーだった。

カウンターのなかで腰掛けてた、すっかり白髪の眼窩の奥まった老人がすっと立ち上がってあの人を迎えた。

 

ーマスター、ジムビームのブラックあったかい、

 ストレート、チェイサーなしだ。

    君は。

 

ーじゃ、こっちも同じやつで。

 

マスターも察しがいい。

こっちにはさりげなくチェイサーが添えられた。

 

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”オースガ”って、「オスカー・ピーターソン」バレバレなのに、飲みのほうは「ストレイト、ノー  チェイサー」って「モンク」なのがおかしくて、ツッコミ入れようかと思ったが、あの人がカウンターのほうへ眼をやったきりそ知らぬふうだったのでやめておいた。

 

 

それからツーラウンドばかり、二人、ほぼ同じタイミングで「マスター、同じやつ」、っていったきりだった。

それぞれカウンターのあらぬほうを見つめるばかりして、たがいに眼を合わせることもなく、話をかわすこともなかった。

  

 

ーじゃ、帰ろうか、

 ああ、ここはいいから。

 

そんなふうにあの人が言ったのか、そんな素振りをしただけだったのか、どっちにしてもあの人に促されてショットバーを出ると、こっちの2、3歩前を歩きだしたあの人は、その後ろ姿のまま、首をちょっと左に傾げ、じゃーな、とかるく左手を翳すや、スタスタと駅のほうへと去っていった。

 

 

 

 

あれから3度ほど、あの人は”明日何時”なんてメッセージをよこしてきただけだ。

そして、それがあたりまえのように、ほんとにやってきたことは一度もなかったし、こんども来なかった。

 

 

 

約束などしない。

たまに心と体をジンジンさせるだけだ。

そのために、ほんとはありもしない未来なんていう幻は捨てるにこしたことない。

 

 

まだ残る酔いと眠気に惑わされる心のなかで、とうに未来など捨ててなお老残を生きている、あの人の、あの小さなまるい背中が浮かんでは消えた。

 

 

 

 

 

さて、外がそろそろと暮れなずんできた。

 

たまさかのジンジンにありつけるか、ちょっと出掛けてみることにしよう。