裏口のアルミドアのノブがすんなりと回ったためしがなかった。
これもだ。
もういちど手指に力をこめて回すとギッと呻いて開いた。
ーなにか用か
ーピアノだ、聞いてなかったか
ーああ、お前か、あっちだ
外はまだ昼下がりというのに、指差された奥の部屋は暗くて薄ぼんやりみえた。
どこもそうだ、こういったところの事務室はどういうわけか奥まったところにある。
いつものように、小さくコンとノックした。
ーいいよ、入って
ああ、 やっぱり。
燻みきった頬のこけた50がらみの男が椅子からなげやりに足を放りだして、歪めた口元にはシケモクを咥えている。
ー9時から2回だ、1ステージ1万だ、わかってるよな
ー客筋はどんなだ
ーそんなこと聞くか
時代はとっくに変わったよな
誰もお前なんか知らないよ、まあ適当に合わせてくれ
ーじゃ、ちょっと見てくるよ
事務室の隣のドアがステージの裏口だった。
弛みきった袖幕を右手で跳ね上げて入ると、思ったよりステージは広めだった。
客席は丸テーブル10個ほど、せいぜい30人程度で満席か。
ステージ左隅に、あちこち剥げ散らかした背高のアップライトが所在なげだった。
ペダルもとうに艶を失って歪み傾いでいた。
アップライトにしては少し重みのある鍵盤蓋を開けて弾いてみて、わかった。
弾いてみれば、いいやつはこっちの思いに弦が応える、弦がその響きで応える。
こいつはそれなりの代物だ。
べつにベーゼンなんかでなくても、いいやつはいい。
調律はいつも丸投げにしている。
ピアノで糊口をしのぐためには調法ってやつから逃れられないことはわかっている。
なんとかそいつを壊してみたいと思ったことがあったが、しょせんそんなこと無理だとはわかっていた。
ジェリー・リー・ルイスのようにプレイ中にピアノを燃やしてしまうわけにもいかない。
それでも、ジャズなんだ。
いつだったかこれをやろうと思いはじめて、これまでやってきたのはジャズなんだ。
人はむやみに言葉を吐き散らかしてやたらと規則をつくりたがる。
人の言葉ってやつには、ほとほとうんざりした。
人がつくる規則ってやつには、ほとほとうんざりした。
でもそんなことはしょうがない、それが人の世だ。
こっちも、なんだかんだあっても、そんな人の世で生きてる。
そう思えば、あとは限られる。
ただ虚しく、気がつけば巨大な毒虫だったっていうザムザを生きるなんて気はさらさらなかった。
あとは、充実とまではいかなくても、毎日とはいかなくても、たまには心と体をジンジンさせながら、その虚しさの穴埋めでもしながらやっていける生業ってものがあれば、ってことだけだった。
そんなとき、これならなんとかなるかと思った。
それがジャズ、だった。
ジャズのピアノ弾きとしてこの人の世を流れ歩くことだった。
だから調律はいつも丸投げにしてきた。
いいやつは弾いてみればわかる。
こいつはそれなりの代物だ。
いつまでかはわからない、でも、この代物に出逢ったんだ。
まあ、明日からここでやってみよう。
ステージを出て事務室の外から声をかけた。
ー決めたよ。
明日、1回目は9時からだったよな。
ーおう、9時だ。
遅れたらそれっきりだからな。
燻んだ頬の咥え煙草の男の声が背後でくぐもりながら遠のいていった。
裏口のアルミドアは内側からはなんなく開いた。
コンビニに入ってすぐに冷えた缶ビール3本を手にしたが、つまみに迷った。
柔いチーズはナシってところ、硬めのゴーダがあったのでそれを2つ拾い上げてレジに向かった。
ずっと昔、ちゃんとした食事をしなきゃ、っていわれた覚えはあるけど、気取りで生きていくにはそんなものはいらない、ってことにしている。
コンビニを出て、昨日チェックインした駅裏のビジネスホテルに戻ることにした。
あと1時間ほどしたらあの人が来ることになっている。