「ディオニュソス」

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ディオニュソスはアジアから来た。この狂乱と淫蕩と生肉啖らいと殺人をもたらす宗教は、正に「魂」の必須な問題としてアジアから来たのである。理性の澄明をゆるさず、人間も神々も堅固な美しい形態の裡にとどまることをゆるさないこの狂熱が、あれほどにもアポロン的だったギリシャの野の豊穣を、あたかも天日を暗くする蝗の大群のように襲って来て、たちまち野を枯らし、収穫を啖らい尽くした・・・。」

「忌まわしいもの、酩酊、死、狂気、病熱、破壊、・・・それらが人々をあれほど魅して、あれほど人々の魂を「外へ」と連れ出したのは何事だろう。どうして人々の魂はそんなにまでして、安楽な暗い静かな棲家を捨てて、外へ飛び出さなくてはならなかったのであろう。心はそれほどまでに平静な停滞を忌むのであろう。」

「それは歴史の上に起こったことであり、個人の裡に起こることでもあった。人々はそうまでしなければどうしてもあの全円の宇宙に、あの全体に、あの全一に指を触れることができないと感じたからに違いない。酒に酔いしれ、髪を振り乱し、自ら衣を引き裂き、性器を丸出しにして、口からは噛みしだく生肉の血をしたたらせながら、・・・そうまでして、人々は『全体』へ自分のほんのつめ先でも引っかけたかったのにちがいない。」

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(「暁の寺 豊穣の海(三)」三島由紀夫著 新潮文庫

 

 

 

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オリンポスの主神ゼウスが人間と神を区別しようと考えた際、、 ゼウスの子ティーターンの一柱であるプロメーテウスはその役割を自分に任せて欲しいと懇願し了承を得た。

彼は大きな牛を殺して二つに分け、一方は肉と内臓を食べられない皮で包み、もう一方は骨の周りに脂身を巻きつけて美味しそうに見せた。

そしてゼウスを呼ぶと、どちらかを神々の取り分として選ぶよう求めた。

プロメーテウスはゼウスが美味しそうに見える脂身に巻かれた骨を選び、人間の取り分が美味しくて栄養のある肉や内臓になるように計画していた。

ゼウスは騙されて脂身に包まれた骨を選んでしまい、怒って人類から火を取り上げた。この時から人間は、肉や内臓のように死ねばすぐに腐ってなくなってしまう運命を持つようになった。

ゼウスはさらに人類から火を取り上げたが、プロメーテウスは、自然界の猛威や寒さに怯える人類を哀れみ、火があれば、暖をとることもでき、調理も出来ると考え、ヘーパイストスの作業場の炉の中にオオウイキョウを入れて点火し、それを地上に持って来て人類に「火」を渡した。人類は火を基盤とした文明や技術など多くの恩恵を受けたが、同時にゼウスの予言通り、その火を使って武器を作り戦争を始めるに至った。

これ怒ったゼウスは、権力の神クラトスと暴力の神ビアーに命じてプロメーテウスをカウカーソス山の山頂に磔にさせ、生きながらにして毎日肝臓を鷲についばまれる責め苦を強いた。

プロメーテウスは不死であるため、彼の肝臓は夜中に再生し、のちにヘラクレースにより解放されるまで拷問が行われていた。その刑期は3万年であった。

プロメーテウスが天界から火を盗んで人類に与えた事に怒ったゼウスは、人類に災いをもたらすために「女性」というものを作るようにヘーパイストスに命令したという。

ヘーシオドス『仕事と日』(47-105)によればヘーパイストスは泥から彼女の形をつくり、神々は彼女にあらゆる贈り物(=パンドーラー)を与えた。アテーナーからは機織や女のすべき仕事の能力を、アプロディーテーからは男を苦悩させる魅力を、ヘルメースからは犬のように恥知らずで狡猾な心を与えられた。

そして、神々は最後に彼女に決して開けてはいけないと言い含めてピトス(「甕」の意だが後代に「箱」といわれるようになる。)を持たせ、プロメーテウスの弟であるエピメーテウスの元へ送り込んだ。

美しいパンドーラーを見たエピメーテウスは、プロメーテウスの「ゼウスからの贈り物は受け取るな」という忠告にもかかわらず、彼女と結婚した。

そして、ある日パンドーラーは好奇心に負けて甕を開いてしまう。

すると、そこから様々な災い(エリスやニュクスの子供たち、疫病、悲嘆、欠乏、犯罪などなど)が飛び出した。しかし、「ἐλπίς」(エルピスー「希望」、「期待」あるいは「予兆」)のみは縁の下に残って出て行かず、パンドーラーはその甕を閉めてしまった。

こうして世界には災厄が満ち人々は苦しむことになった。

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(「プロメーテウス」Wikipediaからの抜粋)

 

 

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ディオニュソスは、オリンポスの主神ゼウスとテーバイの王女セメレーの子である。

ゼウスの妻へーラーは、夫の浮気相手であるセメレーを大変に憎んでいた。

そこで、彼女に「あなたの愛人は、本当にゼウスその人かしら?」という疑惑を吹き込んだ。セメレーは内で膨らむ疑惑に耐えきれず、ゼウスに必ず願いを叶えさせると誓わせた上で、「ヘーラー様に会う時と同様のお姿でいらしてください」と願った。

ゼウスは仕方無く雷霆を持つ本来の姿でセメレーと会い、人間であるセメレーはその光輝に焼かれて死んでしまう。

ゼウスはヘルメースにセメレーの焼死体からディオニュソスを取り上げさせ、それを自身の腿の中に埋め込み、臨月がくるまで匿ったという。

セメレーの姉妹であるイーノーに育てられたディオニュソスは長じて、ブドウ栽培などを身につけて、ギリシャやエジプト、シリヤなどを放浪しながら、神である父ゼウスから与えられたみずからの神性を認めさせるために、信者の獲得に勤しむことになる。

彼には踊り狂う信者や、サチュロスたちが付き従い、その宗教的権威と魔術・呪術により、インドに至るまで征服した。

また、自分の神性を認めない人々を狂わせたり、動物に変えるなどの力を示し、神として畏怖される存在ともなった。

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(「ディオニュソスWikipediaからの抜粋)

 

 

 

 

 

ディオニュソスはアジアから来た」

 

人間である母セメレーの子ディオニュソスは、神である父ゼウスによって、「肉や内臓のように死ねばすぐに腐ってなくなってしまう運命」を、そして、わずかにパンドーラーの残した甕の底のエルピスー「希望」、「期待」あるいは「予兆」をかすかに胸に抱きながら、「火を使って武器を作り戦争をする」、「災いをもたらす女性が住む」人間世界のただなかで生きる運命を与えられた。

 

宇宙の全体全一の全円であるカオス(混沌)から生まれ、またいつでも宇宙に駆け登りその宇宙の全体全一の全円に指先をかけることができる不死の神である父ゼウスは、オリンポスの丘にただ佇立したまま、その麓の大地の軛にあって生死の苦悩に蠢く人間世界を見下ろすばかりである。

 

みずからもその人間世界で苦悩しながらギリシャ、エジプト、シリアを彷徨していたディオニュソスは、ついに、父ゼウスのように、みずからも宇宙に駆け登り、その宇宙の全体全一の全円に指を触れることができる、自分のほんのつめ先でも引っかけることができるかもしれない、その秘儀を見い出した。

 

ディオニュソスは、醸造したブドウ酒を人々に大盤に振る舞い、人々の酒と音楽と踊りと性の忘我狂乱の宴のさまをみて、その宴によって、人間が「肉や内臓のように死ねばすぐに腐ってなくなってしまう運命」を受け入れ、そして、わずかにパンドーラーの残した甕の底のエルピスー「希望」、「期待」あるいは「予兆」をかすかに胸に抱きながら「火を使って武器を作り戦争をする」「災いをもたらす女性が住む」世界のただなかでもなお生きていくことができる、その人間救済の神性秘儀を見い出した。

この人間救済の神性秘儀を獲得したディオニュソスはみずからの神性を誇示しながら、そのはるか遠いアジアはインドから、「酒に酔いしれ、髪を振り乱し、自ら衣を引き裂き、性器を丸出しにして、口からは噛みしだく生肉の血をしたたらせ」ながら、父ゼウスらオリンポスの神々が佇立するオリンポスの丘へと駆け上がり、そしてオリンポスの丘から宇宙に一気に駆け登って、その宇宙の全体全一の全円に自分の指先をかけようと、また自分のほんのつま先でも引っかけようとしたのだ。

 

 

 

  

 

 

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「権力は、雑多な性的変種を生産し固定する。近代社会が倒錯しているのは、そのピューリタニズムにもかかわらずというのでもなく、またその偽善の反動によってでもない。それは現実に、かつ直接的に倒錯している。」

「中世以来、西洋世界においては、権力の行使は常に法律的権利において表現されていた。」が、近代社会は「法律的権利によってではなく技術によって、法によってではなく標準化によって、刑罰によってではなく統制によって作動し、国家とその機関を越えてしまうレベルと形態において行使されるような権力の新しい仕組み」である。

近代「資本主義が保証されてきたのは、ただ、生産機関へと身体を管理された形で組み込むという代価を払ってのみ、そして人口現象を経済的プロセスにはめ込むという代償によってのみ」である。

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(「性の歴史Ⅰ 知への意志」 ミシェル・フーコー著 渡辺守章訳 新潮社)

 

 

 

 

 

「近代社会は、・・・現実に、かつ直接的に倒錯している」

 

ディオニュソスはオリンポスの神々の仲間入りは果たしたもののそれら神々が住むオリンポスの丘の隅に席を与えられただけで、なおその中央には父ゼウスが、そしてあの冷徹な理性と流麗堅固の形式身体美に包まれたアポロンが佇立していた。

 

近代社会は密かにそのアポロンの理性による人間社会の統治理念を淵源としているかのようである。

しかしアポロンの理性は神の理性であり、神の支配統治を拒否して人間中心主義(ヒューマニズム)を宣言した近代社会がその治世のよすがとする理性は人間の理性であって、その淵源は絶たれている。

 

人間を超越する神の理性は人間社会の統治理念として正立しても、人間が人間の理性によって人間社会を統治するとすれば、その理念は個々の人間に対して「現実に、かつ直接的に倒錯し」、また逆立する。

 

不死の神ではなく、生死常ならない人間社会では経世済民についての理念形式が求められ、人間の理性が推し進めた近代資本主義においては「人間の個々の身体は生産機関によって管理された形で組み込まれ、そして個々の人間の生殖と死亡は人口現象として経済的プロセスにはめ込まれる」。

 

人間を超越するアポロンの神の理性が許容し放置してきたとしても、近代資本主義のこの経世済民理念は、ディオニュソスの「酒と音楽と踊りと性の忘我狂乱の宴」の秘儀を許容することもまた放置することもできない。

 

近代社会は「法律的権利によってではなく技術によって、法によってではなく標準化によって、刑罰によってではなく統制によって作動し、国家とその機関を越えてしまうレベルと形態において行使されるような権力の新しい仕組み」によって、ディオニュソスの「酒と音楽と踊りと性の忘我狂乱の宴」の秘儀に立ち入り、そこに表象される「雑多な性的変種を生産し固定して」分析し、その分析にもとづいて「生産機関へ個々の人間の身体を管理して組み込み、個々の人間の生殖と死亡を人口統計してそれらを経済的プロセスにはめ込む」。

 

しかし、音楽や踊りや性は人間の個々の個人幻想でありまた相対者との対幻想であって、いかなる経済社会共同幻想や理念も、またいかなる技術や標準化あるいは統制によっても、それらの内実をその裡に組み込んだりはめ込んだりすることはできない。

 

近代社会がなおの技術や標準化あるいは統制によって個々の人間の行動や生活の隅々にまで踏み入り情報収集に励んでも、音楽や踊りや性など人間の個々の個人幻想やで相対者との対幻想の内実を掌握することはできない。

近代社会がなおの技術や標準化あるいは統制によって個々の人間の行動や生活の隅々にまで踏み入り情報収集に励めば励むほど、人間社会は個々の人間の個人幻想、対幻想からの疎外を深め、ディオニュソスの「酒と音楽と踊りと性の忘我狂乱の宴」の人間救済の秘儀から強く疎外される。

 

近代社会は、その理性が「現実に、かつ直接的に倒錯している」ことによって、ディオニュソスの「酒と音楽と踊りと性の忘我狂乱の宴」の人間救済の秘儀を受け入れることができず、いまなお、「肉や内臓のように死ねばすぐに腐ってなくなってしまう運命」にあり、そして、わずかにパンドーラーの残した甕の底のエルピスー「希望」、「期待」あるいは「予兆」をかすかに胸に抱きながら、「火を使って武器を作り戦争をする」、「災いをもたらす女性が住む」人間世界のただなかで生きる、その運命にあるままである。

 

近代社会はこの経済社会幻想の限界と矛盾の焦慮から「科学」という近代幻想によって人間の心身に「現実に、かつ直接的に」侵入し分析して、その限界と矛盾の消滅を企図しているが、その科学幻想の行く末は、その煩わしい限界と矛盾を生みだしている人間と人間社会そのものの消滅であり終焉である。

 

 

人間が、そして人間社会がなおある限り、人間は、人間社会はディオニュソスの人間救済の神性秘儀を求めつづける。

 

ディオニュソスはいまも「「酒に酔いしれ、髪を振り乱し、自ら衣を引き裂き、性器を丸出しにして、口からは噛みしだく生肉の血をしたたらせ」ながら、アジアの野を、そして世界の野を駆け巡っている。