「文化」

 

 

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「文化は、ものとしての帰結を持つにしても、その生きた態様においては、ものではなく、又、発現以前の無形の国民精神でもなく、一つの形(フォルム)であり、国民精神が透かし見られる一種透明な結晶体であり、いかに混濁した形を取ろうとも、それがすでに「形」において魂を透かす程度の透明度を得たものであると考えられ、従って、いわゆる芸術作品のみではなく、行動および行動様式をも包含する。」

 

 「日本人にとっての日本文化は、・・・三つの特質を有する・・・。すなわち・・・再帰性と全体性と主体性である。」

 「文化の再帰性とは、文化がただ『見られる』ものではなくて、『見る』者として見返してくる、という認識に他ならない」

「又、『菊と刀』のまるごとの容認、倫理的に美を判断するのではなく、倫理を美的に判断して、文化をまるごと容認することが、文化の全体性の認識にとって不可欠であって、これがあらゆる文化主義、あらゆる政体の文化政策的理念に抗するところのものである。」

「文学の主体性とは、文化的創造の主体の自由の延長上に、あるいは作品、あるいは行動様式による、その時の、最上の成果へ身を挺することである・・・」

 

 「文化における生命の自覚は、生命の法則に従って、生命の連続性を守るための自己放棄という衝動へ人を促す。自我分析と自我への埋没という孤立から、文化が不毛に陥るときに、これからの脱却のみが、文化の蘇生を成就すると考えられ、蘇生は同時に、自己の滅却を要求するのである。このような献身的契機を含まぬ文化の、不毛の完結性が、『近代性』と呼ばれたところのものであった」

 

「文化主義とは一言を以ってこれを覆えば、文化をその血みどろの母胎の生命や生殖行為から切り離して、何か喜ばしい人間主義的成果によって判断しようとする一傾向である。そこでは、文化とは何か無害で美しい、人類の共有財産であり、プラザの噴水の如きものである。」

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(「文化防衛論」三島由紀夫著・筑摩書房刊) 

 

 

 

 

 かの大戦の終わりから長い時を経て日本は「近代」への信仰をなお深めてその運命を「近代」に委ねるしかないところへと流れついた。

 

「近代」は「文化」を冷笑する。

「近代」は「文化における生命の自覚」の虚妄を申立て「献身的契機」の不在を宣明して「文化」を冷笑する。

 

「近代」は「日本文化」と並び立つことができない。

「近代」はただ「見られる」ものであり「分別」であり「客観」である。

「近代」は『見る』者として見返しまるごとを容認しみずから身を挺する「日本文化」と並び立つことができない。

 

 

 

「この角道の精華に嘘つくことなく、本気で向き合って担っていける大相撲を、角界の精華を、貴乃花部屋は叩かれようが、さげすまれようが、どんなときであれども、土俵にはい上がれる力士を育ててまいります。」貴乃花親方)

 

 「近代」は長きにわたって「日本文化」から再帰性全体性主体性を剥ぎ取りその「文化」をただ客観的に鑑賞するだけの芸術作品に貶めるべく様々に企ててきたがいまだなお果たせない。

 

 

 

 「文化」は「生命の連続性を守るための自己放棄という衝動へ人を促す。」

「文化」は「蘇生と同時に自己の滅却を要求する。」

「文化」は「自己滅却の献身的契機」によって「完結性」を得る。

 

「近代」は「文化」を「近代化」すれば「文化」の「完結性」を無くしてこの人の世の主座を占めることができると信じている。

 

 

 「この角道の精華に嘘つくことなく、本気で向き合って担っていける大相撲を、角界の精華を、貴乃花部屋は叩かれようが、さげすまれようが、どんなときであれども、土俵にはい上がれる力士を育ててまいります。」(貴乃花親方)

 

 「近代」は長きにわたって「日本文化」からその「完結性」を無くして「日本」の主座を占めようと様々に企ててきたがいまだなお果たせない。

 

 

 

「日本」はすでにその運命を「近代」に委ねている。

「日本」は「近代」に「日本文化」から「完結性」を無くして主座を占めるよう委ねるしかない。

「日本」は「近代」がその主座を占めて「日本」を「血みどろの母胎の生命や生殖行為から切り離された、何か無害で美しい、人類の共有財産であり、プラザの噴水の如きもの」にするよう委ねるしかない。

 

 

しかしその「近代」はすでにその虚妄と擬もうを顕にしている。

 

 「近代」は「神」に代わりその間然なき理性によって人と人の世を解析整序して救済するとみずから宣明して前へと進み出てきた。

 しかし「近代」はすでにしてAI人工知能と万能細胞を創出するに至っている。

AI人工知能はどれほどの機能を獲得しても自然物であり人の知能ではない。

また万能細胞はいかに万能であっても自然物であり人の身体ではない。

人の脳をAI人工知能装置と交換してももはやその生命体は人ではない。

万能細胞によって身体を複製してももはやその生命体は人ではない。

 

 脳をAI人工知能装置と交換して万能細胞により身体を複製すれば人が長く夢想してきた「永遠の生命体」の誕生をみることとなる。

しかしその「永遠の生命体」はもはや「血みどろの母胎の生命や生殖行為から生まれでる」人でもなければ「生命の連続性を守るための自己放棄という衝動へ促される」人でもない。

その「永遠の生命体」が生きる世はもはや人の世ではない。

 

 

 

「神」であれ「近代」であれ救済を求めまた救済されるべきは人であり人の世である。

「近代」は救済を求めることもなければ救済される要もない「永遠の生命体」を創り出し人と人の世をその終末へと誘う虚妄と擬もうである。

 

 

「この角道の精華に嘘つくことなく、本気で向き合って担っていける大相撲を、角界の精華を、貴乃花部屋は叩かれようが、さげすまれようが、どんなときであれども、土俵にはい上がれる力士を育ててまいります。」貴乃花親方)

 

 

「近代」はその虚妄と擬もうによって人と人の世をその終末に誘うことができればその「完結」を迎えることができる。

「近代」がその「完結」に至らずまたそれまでその命脈を保つことができれば「日本文化」はなおみずからの「完結性」を誇示して「近代」に勝利することができる。