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「道義」

思想

 

 

  ”” 私は本来国体論には正当も異端もなく、国体思想そのものの裡にたえず変革を誘発する契機があって、むしろ国体思想イコール変革の思想だという考え方をするのである。それによって平田流神学から神風連を経て二・二六にいたる精神史的潮流が把握されるので、国体論自体が永遠のザインであり、天皇制信仰自体が永遠の現実否定なのである。明治政府による天皇制は、むしろ絶対的否定的国体論(攘夷)から天皇を簒奪したものであった。明治憲法天皇制において、天皇機関説は自明の結論であった。」

「しかし、明治憲法上の天皇制は、一方では道義国家としての擬制を存していた。この道義国家としての擬制が、ついに大東亜共栄圏と八絋一宇の思想にまで発展するのであるが、国家と道義との結合は、つねに不安定な危険な看板であり、(現代アメリカの「自由と民主主義」」の使命感を見よ)これが擬制として使われれば使われるほど、より純粋な、より尖鋭な、より「正統的な」道義によって「顚覆」され「紊乱」される危険を蔵している。道義の現実はつねにザインの状態へ低下する惧れがあり、つねにゾルレンのイメージにおびやかされる危険がある。二・二六は、このような意味で、当為の革命、すなわち道義的革命の性格を担っていた。」

「あらゆる制度は、否定形においてはじめて純粋性を得る。そして純粋性のダイナミックスとは、つねに永久革命の形態をとる。すなわち日本天皇制における永久革命的性格を担うものこそ天皇信仰なのである。しかし、この革命は、道義的革命の限定を負うことによって、つねに敗北を繰り返す。二・二六はその典型的表現である。””

ちくま文庫「文化防衛論」『道義的革命』の論理ー磯部一等主計の遺稿についてー」三島由紀夫著)

 

 

 

 

「 近代」は神から自由となったとしても「近代」というなおの「擬制」であり、その「擬制」は「道義」から免れることはできない。

 

近代国家がいかなる政体を採りいかなる政治理念を掲げてもそれら「擬制」は「国家道義」から免れることはできない。

「独裁あるいは民主」政体のいずれの「戦争あるいは平和」理念のいずれの「擬制」もまた「国家道義」から免れることはできない。

 

 

 

明治憲法は近代国家の政体と理念を擬制しながら天皇を万世一系統治権総覧の元首とする「国家道義」を擬制した。

 

 

磯部一等主計はみずからの内なる道義と国家道義の合一を信じて蹶起した。

 

磯部一等主計は蹶起したあと「国家道義の体現者」天皇の「大御心」を弛まずに待った。

 

磯部一等主計は「永久道義的革命の限定」を負うもののつねとして敗北し刑死した。

 

 

 

 「いかなる政体も理念も擬制として使われれば使われるほど、より純粋な、より尖鋭な、より正統的な道義によって顚覆され紊乱される危険を蔵し、道義の現実はつねにザインの状態へ低下する惧れがありつねにゾルレンのイメージにおびやかされる危険がある。」

 「あらゆる政体も理念も否定形においてはじめて純粋性を得るものであり、その純粋性のダイナミックスとは、つねに永久革命の形態をとる。」

 「日本天皇制における永久革命的性格を担うものこそ天皇信仰なのである。しかし、この革命は、道義的革命の限定を負うことによって、つねに敗北を繰り返す。」

 

 

 磯部一等主計は「永久道義的革命の限定」を負うもののつねとして敗北し刑死した。

 

 

 

 

 いまかの国では「自由と民主主義」政体と理念の「擬制」が使われれば使われるほどとしてそのゾルレンのダイナミックスを失ないザインの状態に低下した。

いまかの国では「ポリティカルコレクトネス」によってその「自由と民主主義」政体と理念の「擬制の正統性」を維持しようとすればするほどとしてそのゾルレンのダイナミックスを失ないザインの状態に低下した。

 

「あらゆる制度は、否定形においてはじめて純粋性を得る。」

「純粋性のダイナミックスとはつねに永久革命の形態をとる。」

 

 かの国の次代指導者はその「自由と民主主義」政体と理念の「擬制」の否定形においてその「擬制の純粋性」を獲得しようとしている永久の道義的革命者であるのか

かの国の次代指導者もまた「道義的革命の限定」を負うものとしていずれ敗北していくのか

 

 

 

 

 現憲法は「自由と民主主義」政体と理念の擬制のもと天皇を日本国及び日本国民の統合の象徴とする「国家道義」をなお擬制した。

 

 

 いま象徴天皇は「国家道義の体現者」としてのあり方振る舞い方について国家の主権者日本国民に問いかけその理解を待っている。

 

 

 いまこの国の「自由の民主主義」政体と理念の擬制の運命は象徴天皇が問いかけ理解を求める国家の主権者日本国民の「国家道義」の認識と意思にこそ委ねられている。