「無明」

 

「人には無明という、醜悪にして恐るべき一面がある。・・・人は自己中心的に知情意し、感覚し、行為する。その自己中心的な広い意味の行為をしようとする本能を無明という。」

「人は無明を押えさえすれば、やっていることが面白くなってくると言うことができるのです。たとえば良寛なんか、冬の夜の雨を聞くのが好きですが、雨の音を聞いても、はじめはさほど感じない。それを何度もじっと聞いておりますと、雨を聞くことの良さがわかってくる。そういう働きが人にあるのですね。雨の良さというものは、無明を押えなければわからないものだと思います。数学の興味も、それと同一種類なんです。」

(岡 潔「人間の建設」小林秀雄との対談集 講談社刊)

 

 

その階段には急な傾斜がかかっていて後ろのほうの席からも舞台が間近に迫って見えた、

 

ホールに突如「白鳥の湖」が地響いて、舞台に傲然たる光が差し込む、

 

部長刑事・木村伝兵衛(三浦洋一)が受話器にがなりたてる、

熊田刑事(平田満)が歩みでる、「ここは私にお任せください」

 

 

たしか新宿の小さなホールだった。

つかこうへい氏「熱海殺人事件」を観て身と心が悦び沸き立った、

 

それは、「無明」という「自己中心的に知情意し、感覚し、行為する」人々が糾う悲喜劇だった、

そう感じて「無明」の身と心が悦び沸き立った。

 

 

時は過ぎて、つかこうへい氏はこの世を去った。

その「遺書」には、氏が「無明を押えながら生きてきた」記しが残されていた。

 

つかこうへい氏の「熱海殺人事件」は、眩い光や大きな音響で効果を引き立たせながら、しかし「静かに無明を押えながら」、そして「この世に遺すもの」として、作劇演出されたものであることを知った。

 

 

舞台劇を観たのはその「熱海殺人事件」が最後だった。

 

あのとき、「無明」という「自己中心的に知情意し、感覚し、行為する」人々が糾う悲喜劇を観て、「無明」の身と心が悦び沸き立った。

 

つかこうへい氏の「遺書」により、自己中心的に知情意し、感覚し、行為しながらも、「無明に生きることを知り、その無明を押えながら生きる」人々が糾う悲喜劇を空観して、また「無明」の身と心が悦び沸き立った。