ジャズ⑦

 
ようやくそれらしい街並みが見えはじめた、

ああ、あれだ、

メンフィスだ、

空は全面ブルーに晴れ渡っている、

ー 

 

ってところまできて、なんとも疲れた。

 

狭っ苦しい空の上で14時間以上、レンタカーでもう6時間ほどだ、

まあ、しょうがない。

 

 

そうなるとまずはモーテルだ。

街中のしゃれたホテルなんかしょせん無理、

あたまっからモーテルってきめてたけど、

アメリカのモーテルってどんなとこか、

なにしろはじめてだ。

 

 

ペンキの剥げた寂れた看板をみつけてハンドルを切った。

 

フロント室のドアを開けると目の前にいきなりの分厚アクリル板ドン、だった。

ちょろい銃弾なんかはじき飛ばしてしまうぞ、ってほど分厚かった。

映画なんかでみる髭ズラの中年男が顔をだすと思い込んでいたから、アクリル板にはたじろいだ。

中年男はアクリル板の向こう側でうつらうつらしていた。

 

薄汚れた料金表は破けて壁からいまにも落っこちそうだった。

 

アクリル板の小窓のくぼんだところに20ドル札を置く、

小窓が引き上げられて20ドル札がすっと引き込まれる、

代わりにキーがポンと置かれて小窓がトンと閉められた。

 

おお、これだ、これだ、

 

アメリカだ。

 

 

ひょっとして熱いのが、と、シャワーのノブをしっかり回してみたが、あんのじょうヒヤッと冷たいやつでしかなかった。

まあこれくらいはアリだと思っていたけど、ほかにもなんにも、セーフティーボックスも冷蔵庫も、みごとになにもなかった。

シーツが洗いたてでプリーツが立っていたのは余程にありがたかった。

さっそくベッドにもぐりこんだ。

 

 

 

車のドアの開け閉めかなにかの物音で目が覚めると、クタクタよれよれのカーテンの隙間から夕刻の強い陽射しがベッドの足元あたりに差し込んでいた。

 

 

さて、腹もしっかりとへった、

 

出かけよう、

まずはビール・ストリートだ、

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ここからブルースが生まれた、

B.B.キングはここのストリートミュージシャンだった、

建物や店はほぼその頃の佇まいのまんまだ、

食い物はなんといってもバーバキューリブだ、

 

とかいう話はいちおう仕入れていた。

 

 

 

近くに車を停めると、これからさあ夜だ、酒だ、音楽だ、っていうストリートのざわめきが、そぞろそぞろに伝わってきた。

 

小高い丘を下る一筋のストリートに夕陽の緋い残光がまっすぐに降り注いでいた。

ストリートの両サイドの店のネオンが次々と燈り始め、あちこちからライブの歌声が、楽器の音がさんざめいていた。

 

 

ああ、これか、

これがアメリカの「ダウンタウン」ってやつか。

 

 

スペアリブならハードロックカフェっていう刷り込みがあったので、そっちかと迷ったけど、ここはやっぱり、B.B.キング・ブルース・クラブだ。

 

ドアを開けるともうガンガンのブルースだった、

ブルースがグイーと店じゅうグルービングだ、

これが本場のほんまもの、ってやつだ。

 

迷わず、バーベキューリブとビール、それにフライドグリーントマトをオーダーした。

運ばれてくるジョッキをひったくるようにしてビールを流しこみ、熱々のリブに食いついた。

 

うまい!

ただひたすら、うまい!

 

 

ひと息ついて、ちょいと余裕のふりでステージを楽しむことにした。

 

そのうちに、ステージで飛び交う言葉のなか、「Blues」、「Blues」って発音に、「おや」、「あれ」っとなった。

「ブルース」じゃなくて、なんか「ブルーズ」、「ブルーズ」っていってる。

 

えっ、ああそうか、

「Blues」って「ブルース」じゃなくて「ブルーズ」なのか

「ブルー」、「憂鬱気分」の「ブルー」がいっぱいってことか、

だから「ブルーズ」か、

 

 

 

エルビスはここメンフィスにいたんだ、

ここビール・ストリートにいたんだ、

 

若いころのエルビスは、このビール・ストリートの「Blues」にどっぷりと浸り込んでいたって話だった。

 

そうなると、そうか、若いころのエルビスの「ブルー」は、「Blues」、「憂鬱気分」の「ブルー」だったか、

 

そうすると、あのグレースランドの「ブルー・スエード・シューズ」の「ブルー」は、そうかこの「Blues」の「ブルー」なのか、

 

 

となると、またの一人ごちだ。

 

 ー 

  いや、「エルビス」、そうじゃない、

  そいつは「Blues」の「ブルー」だ、

  

  「エルビス」、

  いつだったか、もうとっくにそいつから抜け出したんじゃなかったか、

  その「ブルー」はもうとっくに吹き飛ばしたんじゃなかったか、

 

  あれから、

  いつだったか、

  「エルビス」、

  

  あの紺碧ブルーの地中海で、

  ”” It's  Now or Never・・・””って、

  思いっきり空高く高くへと歌い上げたんだ。

 

  

  あれからは、

  もう、

  

  エルビスの「ブルー」は、

  海の「ブルー」だ、

 

  エルビスの「ブルー」は

  空の「ブルー」だ。

 ー

 

 

  

あしたグレースランドに行ってみようと思っていた、

けど、もういいかな、

 

グレースランドはナシにした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「自然」

 

””

真淵の「国意考」のなかで、もっとも鮮やかにこれをしめすのは太宰春台が『弁道書』で古代日本では「親子兄弟叔姪」が夫婦になって禽獣の行いを平気でやるような態たらくだったが、中華から聖人の道が入ってきてはじめて倫理が確立されたとかいたのに反論した箇処である。なるほど唐には同じ姓は娶らないという掟はあるが、母子相姦の事実も現実にはあった。斯様な事実があったからこそ、掟が必要となったのだ。日本の古代では同母の子は兄弟だが、異母なれば婚姻も可能であったのだ、とのべたあと真淵はつぎのように云っている。

 

また人を鳥獣に異なりといふは、人の方にて我れ褒めに言いて外を侮るものにて、また唐人の癖なり。四方の国を「夷」と賤しめて其の言の通らぬが如し。凡そ天地の際に生きとし生ける物は皆虫ならずや。それが中に、人のみいかで貴く、人の如何なることにあるにや。唐にては、「万物の霊」とかいひて、いと人を貴めるを、おのれが思うに、人は万物の悪しきものとかいふべき。いかにとなれば、天地の日月の代わらぬままに鳥も獣も魚も草木も古の如くならざるはなし。これなまじひに知るてふことの有りて己が用い侍るにより、互いの間に様々の悪しき心の出で来て、終に世をもみだしぬ。また治まれるがうちにも、かたみに欺きをなすぞかし。

””

(「吉本隆明全集7ー日本のナショナリズムについて」吉本隆明著 晶文社刊 )

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 自然はその摂理によって、全体の秩序を構成する。

 

自然はその摂理によって、万物に生成消滅変転を加えながらそれらの関係を差配し全体の秩序を構成する。

 

人は精神のうちにある「感性」「悟性」により、自然に手を加え自然を切り出すことで自然の摂理を知り、自然の摂理から自由になれると認識することで自然を疎外し「意思」を獲得した。

しかし自然の摂理から自由になることで失う秩序は人の「意思」によっては構成できない。

人は「感性」「悟性」によって自然を超越する真理=神を措定し、その神の天啓によって人の秩序を構成しようとしたが果たせない。

 

近代は、人の精神のうちに「感性」「悟性」を前提とする「理性」を措定し、その「理性」によって神を遠くに押しやり、その「理性」から生み出される理念が真理であるとし、その理念=真理によって人の秩序を構成しようとした。

 

しかし「感性」「悟性」が人の自然である身体の経験に依存する限定された偶然なものであれば、それらを前提する「理性」もまたその限定性と偶然性から免れることはできない。

「理性」を措定するのがその「理性」であるというのであれば、すでにしてそれは自己撞着であり、その「理性」から理念=真理が生み出されることをその「理性」が認めるというのであれば、同じくの論理破綻である。

畢竟、「理性」から生み出される理念=真理が存在するというその精神のありようは信仰であり、その理念=真理とは近代が創り上げた新たな「神」である。

 

自然を超越する真理としての神であれば、天啓を受ける地上の人はその天啓が構成する秩序に包まれる。

しかし、近代の理念=真理の神であれば、それはあるとしても個々の人にあるものであるから、それによって個々の人の秩序が構成されるとしても、人の共同社会の秩序を構成することにはならない。

 

近代は人の共同社会の秩序を構成するためとして、「感性」「悟性」によって形成される国家、法、科学、経済、倫理、宗教、民族などの「思想」という共同幻想を強靭化した。

しかし、これらの共同幻想はその限定性と偶然性からいずれも秩序構成力として脆弱なものであり、またその同じ範疇にあるものは相対のものであり、またことなった範疇のものはそれぞれに重なりうるものであるから、むしろそれらは人の共同社会のなかでもまた他の共同社会との関係においても対立と相克を齎すものである。

 

近代は人の秩序も人の共同社会の秩序も構成することはできない。

 

近代はその共同幻想によって武力戦争をしかけて無数の人を攻撃殲滅してきたが、なお人の秩序も人の共同社会の秩序も構成できない。

近代はその共同幻想によって経済戦争をしかけて無数の人を攻撃殲滅してきたが、なお人の秩序も人の共同社会の秩序も構成できない。

 

 

 

 

「いかにとなれば、天地の日月の代わらぬままに鳥も獣も魚も草木も古の如くならざるはなし。これなまじひに知るてふことの有りて己が用い侍るにより、互いの間に様々の悪しき心の出で来て、終に世をもみだしぬ。また治まれるがうちにも、かたみに欺きをなすぞかし」

 

 

ジャズ⑥

 

それは機上で決めた。

 

もう、7、8時間は飛んでいた。

アメリカの南部へ行くんだからってこじつけで飲みはじめたバーボンのせいか、C・Aから「Chicken or Fish ?」って訊かれるだけでうろたえるほどのダメ英語で先行き不安なせいか、まあ機内の気圧のせいもアリか、

すっかり酔いが回ってウトウトし始めたときに、だしぬけの「エルビス」、だった、

 

また、あの「グレースランド」、トロフィーや額が飾られた豪奢な部屋のソファーで、「ブルー・スエード・シューズ」を手に愛おしそうに眺める、あの「エルビス」のお出ましだった。

 

となると、またまたの煩わしい一人ごちに落ちた。

 

 ー 

  いや、「エルビス」、そうじゃない、

 

  たしかに、さすが「エルビス」、

  # All Shook Up # 

  爪先立ちした足元にそいつはピッタリ収まってる、

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  でも「ブルー」は「スエード・シューズ」なんかに収まらない、

  「ブルー」は手にとれない

  「ブルー」は手にとって眺めるもんじゃない、

         そんな「ブルー」はまがいものだ、

 

  「ブルー」は海のものだ、

  「ブルー」は空のものだ、

 

  

 

  海も空も一面、紺碧ブルーの地中海、あのナポリ民謡をいきなり、

 

  ##

  It's  Now or Never

       Come Hold Me Tight

  Kiss Me My Darling

    Be Mine Tonight

    Tomorrow Will Be Too Late

    It's  Now or Never

    My Love Won't Wait

 

  ・・・

    ##

 

  って、思いっきり空高く歌い上げたエルビスだ。

 

  エルビスの「ブルー」は、

  海の「ブルー」だ、

 

  エルビスの「ブルー」は

  空の「ブルー」だ。

 

 

で、このあとだった、

 

 

 そうだ、メンフィスに行こう、

 もしアトランタの空がブルーに晴れ渡っていたらまずメンフィスに行こう、

 ニューオリンズはそのあとでいい。

 

ー 

 

って、機上で決めた。

 

 

 

 

 

アトランタ空港に降り立ってすぐに空を見上げた。

 

眼に深く沁み入るほどの、どこまでも広く澄み渡るブルーだった。

 

さあ、メンフィスだ。

 

 

空港内のレンタカー店で、係員の侮りと不安の目に晒されながら、身振り手振りのダメ英語でようやくサインまでこぎつけキーを受け取り、ナビで目的地をメンフィスによろしくセッテイングして、さあーさあーさあー、のはじめての左ハンドル、右走行のおそるおそるのスタートだった。

 

 

 

それからずいぶんと走った。

車から見上げる空は行けども行けどもブルーだ、

うん、これならメンフィスの空もまちがいなくブルーに染められている。

 

 

エルビスも、あのブルーの空をいつかどこかで見上げたはずだ。

 

 

 

 

いつだったかどこかで見た。

 

まだ幼い日、夏の初めのころ、一人小高い丘に駆け登って仰向けに寝転んで見上げた、

なんて、これたぶんのあとずけとしても、

たしかに見た。

 

 

どこからが始まりなのか、どこまでで終わりなのか、始まりも終わりもない、ただただ全面一面に広がるブルー、

すぐ近くにあるようでとても遠くにも見える、近くも遠くもない、ただただ全面一面に広がるブルー、

この地上の有象無象のすべてを虚しくして高く天空へと誘いながら、地上のものにはその天空の神秘のさまは決して見せまいとするかのような、ただただ全面一面に広がる天幕ブルー。

 

 

 

あの空のブルーをエルビスもいつかどこかで見上げたはずだ。

 

 

 

もう少しだ、

ナビもあと12マイルほどだと告げてる。

 

 

メンフィスの空が全面一面のブルーだったら、

 

もう、 あの「グレースランド」の「エルビス」はナシだ。

 

 

メンフィスの空が全面一面のブルーだったら、

 

紺碧ブルーの地中海で 

## It's  Now or Never !! ##

 

って、空高く高くへと思いっきり歌い上げてる、

 

あの「エルビス」に会える。

 

 

 

 

あともう少しだ・・・。

 

 

 

 

「曾皙」

 

 

””

儒と呼ばれる聖人の道は、「天下ヲ治メ民ヲ安ンズルノ道」であって、「私カニ自ラ楽シムニ有ル」所以のものではない。 

・・・

孔子は、道を行うのに失敗した人である。

晩年、その不可なるを知り、六経を修めて、これを後世に伝えんとした人である。

・・・

晩年不遇の孔子と弟子たちとの会話である。

もし、世間に認められるようになったら、君達は何を行うか、という孔子の質問に答えて、弟子達は、めいめいの政治上の抱負を語る。一人、曾皙だけが、黙して語らなかったが、孔子に促されて、自分は全く異なった考えを持っている、とこう対えた、 

「暮春ニハ、春服既ニ成リ、冠者五六人、童子六七人、沂(魯の首都の郊外にある川の名)ニ浴シ、舞雩ニ風シ(雨乞の祭りの舞をまう土壇で涼風を楽しむ)、詠ジテ帰ラン」。 

孔子、これを聞き、 

「喟然トシテ、嘆ジテ曰ハク、吾ハ点(曾皙)ニ与セン」、そういう話である。 

””

(「本居宣長(上)」小林秀雄著  新潮社 SHINCHO ONLINE BOOK )

   

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孔子は、「仁、義、礼、智、信」五徳の儒教によって「天下を治め民を安んずる道」を行うことに失敗した。

 

孔子は、儒教という共同幻想によって「天下を治め民を安んずる」ことができると信仰して政治に参画したが、儚く破れて天を仰いだ。

 

不遇の身となった孔子は、なお儒教による政治の希望を語る弟子達にかける言葉が見あたらず、「沂浴詠帰」、ただ自然に浸り詩歌を詠じて楽しむだけだ、と答えた「曾皙」の思想に、嘆息しながらも賛同した。 

 

 

 

 

近代は、人の理性によって「天下を治め民を安んずる道」を行うとするものである。

 

近代は、理性という共同幻想によって「天下を治め民を安んずる」ことができると信仰して政治に参画した。

 

理性は、「感情や欲求に流されることなく、道理や倫理観にしたがって判断したり行動する能力」として人の心の世界に確かにあるものと、この世に広く認識流布されているものであり、それ自体が共同幻想である。

人の心の世界に理性があると認識するのがその理性であるのであれば、畢竟、理性もまた信仰であり、その信仰の流布は共同幻想である。

 

 

共同幻想は、人のさまざまな感覚と感情や物の具象を捨象した、客観と抽象に装われた言葉や文字によって構成される観念として産み出される心の世界である。

そして、それはそうであることによって、この世のどこにでもまたさまざまに作り出され、また広く流布されうるものであり、またそれぞれが相対のものとして乱立するものである。

その客観と抽象の上位階層として国家幻想、法幻想、経済幻想、宗教幻想、 民族幻想などが立ち上がり、その下位階層にはそれぞれの共同体固有の国家幻想、法幻想、経済幻想、宗教幻想などが入れ子となったり絡み合いながらもなおそれぞれが相対として乱立する。

 

 

政治に参画した近代の理性は、その理性によってこれらの入れ子となったり絡み合いながら乱立する相対の共同幻想を整理統御して「天下を治め民を安んずる」べき責めをみずからに任じたものである。

 

しかしながら、理性によって乱立する共同幻想をいかに整理統御してもなおそれぞれの共同幻想の相対とその相克という罠から抜け出ることはできないし、その理性もまた信仰であり、それもまた相対の共同幻想であるという無限の循環の罠から抜け出すことはできない。

 

 

 

個人幻想は、その人のさまざまな感覚と感情を幾重にも織り成した生地から産み出される心の世界である。

 

対幻想は、二人が、それぞれのさまざまな感覚と感情を交互に幾重にも織り成した生地から産み出される同じ心の世界である。

 

共同幻想は、人のさまざまな感覚と感情や物の具象を捨象した、客観と抽象に装われた言葉や文字によって構成される観念として産み出される同じ心の世界である。

 

その自己幻想、対幻想、共同幻想は、人の一つの心の世界に同時にしかしその観念としての位相を異にしながら、またそれぞれがそれぞれの影響を常に受けながら住まい分けしているものである。

人は、その一つの心の世界でありながら、その観念の位相の異なりと住まい分けによって、自己幻想、対幻想、共同幻想を同時に意識に昇らせることはできないし、それらを同時に表現することもできない。

 

また自己幻想、対幻想、共同幻想は、その観念の位相の異なりによって、それぞれが共立し順立をすることもあれば互いに並び立たず逆立することもあるものである。

 

自己幻想、対幻想、共同幻想が人の一つの心の世界でそれぞれ並び立たず逆立することになれば、人はその心の平穏を保つことができない。

 

人の心の世界のなかの自己幻想、対幻想、共同幻想は観念としての優先も優劣もないから、その相対の相克は果てしなく人の心の平穏を乱すものである。

 

この心の平穏の乱れによって、人は「感情や欲求に流されることなく、道理や倫理観にしたがった判断したり行動する」ことができなくなる。

このとき、人の理性は揺るぎ、また人は理性を失う。

そしてまたこのとき人の理性への信仰は揺るぎ、人はその信仰を失う。

 

 

それでもなお、神、自然を疎外しその支配から逃れて、人の理性によって「天下を治め民を安んずる道」を選択した近代はその任を果たすべき宿命にあり、もはや神、自然の摂理にその運命を委ねることはできない。

 

しかしながら、近代がその責任を果たしうる道はほぼなくなりつつあり、近代はそれを明らかに悟りつつある。

 

近代は、武力戦争によって無数の人を攻撃し殲滅してもその責任を果たせなかった。

近代は、経済戦争によって無数の人を攻撃し殲滅してもその責任を果たせなかった。

武力戦争も経済戦争も人の理性によって巧妙怜悧にまた冷酷無比にしかけられたものである。

 

近代は、人の理性の限界を悟りつつある。

 

近代は、そのみずからが信仰であり無限の循環の罠である人の理性を、絶対として「感情や欲求に流されることなく」、絶対として「道理や倫理観にしたがって判断したり行動する能力」とする「純粋理性」に創り替えて、その「純粋理性」によって「天下を治め民を安んずる道」を行うべく企てている。

しかし、その「純粋理性」もまた人の理性によって創り替えられるものであれば、それはやはり無限の循環の罠に囚われた観念であり、この世に夢遊して漂うだけの幻覚である。

 

 

 

 

 

近代は、理性という共同幻想によって「天下を治め民を安んずる」ことができると信仰して政治に参画したが、もうその責を果たすことはできない。

 

その不遇の近代で、なお頑なに理性による政治の希望を語ることは、その理性による人への無理解であり、その無理解の理性による人への冒涜である。

 

 

 

「沂浴詠帰」

 

ただ自然に浸り詩歌を詠じて楽しむだけだ。

 

 

 

 

ジャズ⑤

 

 

 

このごろは酔いがまわるとストンと寝落ちする。

いい気分で飲み始めるとなお早い。

 

 

さきほどから、いい気分で飲み始めている、

それにもうベッドに潜り込んでいる、

 

なのに、きょうはなかなかそういかない。

 

 

 

また、さっきのアレか。

 

 

「半音はずし」は  ”Flung  out  of  space”   ってことで、とりあえず気持ちよく落ち着いた。

 

 

でも ”「半音はずし」にトントンでオーケーでしょ” ってやつが残ってた。

 

こいつは、やっぱり、わかるようでわからない。

 

 

ひょっとしてこれも ”Flung  out  of  space”  か?

ぽんと空から放り投げられた謎かけ、ってやつか?

 

 

 

いや、もうヘタに考えるのはやめにしている、

考えるなんてことはムダだ、

考えるといずれドツボにはまる、

もう、しこたま考えてしこたまバカをみた。

 

 

だからジャズをはじめたんだ、

だからジャズを生業にしているんだ。

 

 

 

考えるんじゃなくて、ただ感じればいい、

これまでそうしてきた、

ものごとは、ただただ感じればいい、感じとればいい。

 

 

 

あの「半音はずし」は、 ”Flung  out  of  space” だ、って感じられたんだ。

 

”「半音はずし」にトントンでオーケーでしょ”ってやつも、そのはずだ、

そのままを、ただすなおに感じてみればいい。

 

 そう思って、じっと眼をつぶった、

 

 

考えない、

心の動きを鎮めて、

ただ感じるんだ ・・・・・・

 

 

 

 

 

 

夜がすっかり更けて布団にすっぽりと潜り込む、

耳元にはちゃんと小さなラジオを引き寄せている、

 

聴こえてきた、

はるか遠いところから、

 

ゆったり、のんびりしたハーモニカが、

調子ずらしのおどけたリズムで、

こっちに呼びかけるように、

 

追って、

 

  "  Love Love me do

   You know  I love you

    ・・・

なんて、呆気も素っ気もない詞で、

ゆったり、のんびりした、調子ずらしのおどけたリズムに乗せて、

こっちに歌い掛けてくるように、

 

 

 

聴こえてきたのは、気分だった。

それは、こっちとおなじ気分だった。

 

感じていたのは、気分だった。

それは、こっちとおなじ気分だった。

 

 

あとで知った。

 遠くリヴァプールの「Cavern」でやってたあの4人だった。

 

 

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あの4人のあのときの気分だった。 

 

その気分に、こっちのおなじ気分がトントンと応えてジンジンと響いた、

 

って、たしかにあのとき感じた。

 

 

 

ものごとは感じればいい、

感じれば、伝わる。

感じれば、気分も伝わる。

気分が伝われば、つながる。

 

そう、それでオーケーだ。

 

 

 

おう、ちゃんとハマった。

 

 

”「半音はずし」にトントンでオーケーでしょ”

 

こいつにちゃんとハマった ・・・・・・

 

 

 

 

 

 

ってところで、ふいと目が覚めた。

 

こうなると夜はけっこう長い。

 

 

 

「相対」

 

 

 

先の大戦が終わって70年あまり、近代は、「共同幻想」の「相対」とその「限界」を悟りつつあり、なおの焦慮を強めている。 

 

 

人は、それぞれ自己の個人幻想を紡ぎ出す。

近代の個人幻想は、その人のさまざまな感覚と感情を幾重にも織り成した生地から産み出される心の世界であり、その人だけの「絶対」のものである。

 

人は、二人の間で対幻想を紡ぎ出す。

近代の対幻想は、二人が、それぞれのさまざまな感覚と感情を交互に幾重にも織り成した生地から産み出される心の世界であり、その二人それぞれにだけの「絶対」のものである。

 

対幻想は、二人の間にのみ産み出される。

人は、二人以上を相手として、同時に、そのさまざまな感覚と感情を取り交わすことができない。

人は、三人以上の間で、「絶対」の心の世界を産み出すことができない。

 

人は、三人以上になると、個人幻想・対幻想が「相対」にさらされ、その「絶対」は揺さぶられる。

 

 

人は、三人以上の共同体においてさまざまな共同幻想に遭遇する。

近代の共同幻想は、人のさまざまな感覚と感情や物の具象を捨象した、客観と抽象に装われた言葉や文字によって作り出される心の世界である。

そして、それはそうであることによって、この世にひろく流布されうるものである。

また、それがそうであることによって、人は、そのさまざまな感覚と感情や具体的な特質が捨象された、客観と抽象に装われた名辞あるいは数として扱われるものである。

そしてまた、その客観や抽象に装われた言葉や文字は、人のさまざまな感覚と感情や物の具象を捨象したものであるから、それらによって作り出される共同幻想は空疎の観念そのものである。

よって、近代の共同幻想は、この世のどこにでもまたさまざまに作り出されるものであり、それらはまぎれもない「相対」のものとして、この世に乱立するものである。

 

  

 

共同幻想が人の心身に対して観念あるいは実体として侵入してきたとき、人はそれを心の世界で受け入れることができるか、受け入れるとして心のどこにどのように受け入れるのか迫られる。

 

その侵入してくる共同幻想がどの共同体をどのように支配しているものか、それは人の「絶対」の個人幻想や対幻想と共立するものか、それらは互いに侵害しあうものか、影響しあうものか、それらの判断をさまざまに迫られる。

 

 

 「絶対」である神、自然が主宰する共同幻想では、人の個人幻想・対幻想は「相対」となりうるから、この相克は構造的には起こらない。

 

近代は、「人間中心主義」を標榜して、「絶対」である神、自然を強く疎外した。

近代は、「人間中心主義」により、人の個人幻想・対幻想を「絶対」のものと措定して、その共同幻想を「相対」のものとして作り出した。

 

近代は、人の「絶対」の個人幻想・対幻想と共同幻想との、それに加えて「相対」である共同幻想それぞれの、果てしのない「相克」の世界である。

 

 

近代は、「共同幻想」の「相対」に耐えきれず、さまざまなところでさまざまな戦を仕掛けてきているが、その「相対」は揺るがない。

近代は、「共同幻想」の「相対」に耐えきれず、他の「共同幻想」を打倒するため、その人の心身を攻撃、殲滅する戦を仕掛けてきているが、なおそのみずからの「相対」をさらしたままである。 

 

 近代は、「共同幻想」の「相対」に耐えきれず、先の大戦を仕掛けて、無数の人々の心身を攻撃、殲滅したが、そこで生き延びた「共同幻想」もなんらの「絶対」を得ることはなく、その「相対」の姿をいまもさらしたままである。

 

 

先の大戦が終わってから、近代は、さらなる精密無比の機器や技術を開発して、人の心身を細部にわたって分析調査し、その結果にしたがって人をさまざまな機関に組み込み管理し、また人の生殖と死までをも数値化し統計を図り、人のその心身すべてを即物の経済プロセスのなかに完全に嵌め込むことによって、その人の個人幻想や対幻想を「相対」のかぎりとし、また「共同幻想」の揺らぎをとどめて、それを「絶対」のものとすべく懸命に急いできたが、なお果たせない。

 

その一方で、近代はすでにしてAI人工知能と万能細胞を創出して、人の個人幻想や対幻想を消滅させ、また共同幻想を「絶対」のものとする手筈を整えつつある。

AI人工知能と万能細胞によって創出される永遠の生命体には、「絶対」の個人幻想・対幻想の心の世界はない。

AI人工知能と万能細胞によって創出される永遠の生命体には、「絶対」の共同幻想を植え付けることができる。

 

しかし、近代が、AI人工知能と万能細胞による永遠の生命体を創出すれば、それは近代そのものの終焉であり、人の歴史の終焉となる。

 

近代は、近代がなお生き延びるためには、近代みずからによって、人の個人幻想や対幻想を「相対」のかぎりとし、「絶対」の共同幻想を作り出さなければならない宿命にある。

 

 

先の大戦が終わって70年あまり、近代は、「共同幻想」の「相対」とその「限界」を悟りつつあり、なおの焦慮を強めている。

 

 

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ジャズ④

 

 

さっきから気になっていた。

チック・コリアの「スペイン」をやりはじめてインプロに入ったときあたりから、ときおり、トン、トン、と小さな音が聞こえてきて、気になっていた。

 

「スペイン」を弾き終わったところで、まばらな拍手に応えるふうにしてそれとなく薄暗い客席を見まわした。

 

わりとステージに近い丸テーブルの上に透き通るほどに白くて華奢な手が、ぽっと仄かに浮かんで見えて、人差し指がちょいちょいと上下していた、

 

ああ、あれだ。

 

 

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そう思っても相手は客だ、

それ以上はない、

ちょいと居ずまいを整えて、次、キースの「マイ・ソング」に移った。

 

 

 

その夜はほぼ満席の客の入りだったし、客筋もなかなかだった。

 

ーキースだよね、ここで「ケルン」なんてどう?

なんて、からかってくる酔客もいたけど、

 

キース・ジャレットですね、じゃ「カントリー」いきましょう。

って適当にかわすと、結構な具合に盛り上がってくれた。

 

まあ、こっちもひさかたの、弾きまくりジンジン、ってステージだった。

 

 

 

 

 

ホテルに戻ってエレベーターに向かうところで、フロントの男が思わせぶりな目配せをくれたので、ロビーに眼をやった。

 

窓際のソファーに伏し目がちに座っていた人の右の手がわずかに遠慮がちに挙がった。

あの、透き通るほどに白くて華奢な手だった。

 

でもそれっきり、たちあがる気配もない。

 

埒あけに声かけしてみた。

 

ーなんか用でしたか?

 

 

 ーいえ、特にです。

 

と、こちらに向けられたその眼には覚えがあった。

 

たしか以前どこかで、この眼で見られたことがあった、

こっちに向けられたのに思わず後ろを振り返ってしまったあの眼、

あのときの眼だった。

 

でもいつだったかどこでだったか思い出せない。

 

 

 ーええっと、それで、あなたは?

 

 ーあのー、自己紹介はナシってことにしてるんですが、ダメですか?

 

ーうん、それはいいけど、

 どうしてナシか、って話もナシかな?

 

 ーいや、いいですよ、

    まあ、自分で自分のことよくわからない、からかな、

 いや、もうちょいマジにいきます、

 「私、なになにです」なんていう、そういうたぐいの言葉は捨てました、

 ってことで、どうでしょう?

 

 ーうん、とりあえずオーケー、ってことでいいけど、

 前に会ったことありました? 

 

 

ーえっ、ええ、お見かけしたことはあります、

 New Orleansです、Preservationでした。

 

 

あ、そうか、ニューオリンズだったか、

あそこは、まあ、思い出したくない、

とっさにそこはスルーして、ちょっと斜めにふってみた。

 

ーあなた、アメリカ?

 

 ーそれって、国籍とかってやつですか?

 

ーうん、まあ、いや、ニューオリンズとか発音がネイティブっぽかったから。

 

ーさっきお願いしたばかりですけど、

 自己紹介はナシでって。

 

 

 話を変えるしかない。 

 

ー うん、

 で、なんで、わたしに?

 

ー聞いてた通りでした、

   半音はずし、してましたね。

 

 

「マイ・ソング」はキース・ジャレット完コピだから、「ケルン」どう、なんてからかわれたのはいいとして、「半音はずし」か、

 

 

ーあれ、アドリブのところで和音、半音はずしてますよね。

 

ーああ、そこでトン、トン、やってたわけか、

 うん、それで?

 

ーそれで、って、

 だから、いいんです、それで、

 トン、トンで、もうそれでいいんです。

 

 ーなにが?

 なにが、それでいいの?

 

ーなにが、じゃなくて、

 それでオーケーってことです。

 だって、調子はずしのジャズで、もう一個はずしたくての半音はずし、でしょう、

 それに合わせてトン、トン、ってやったんです、

 それでもういいんです。

 

 

いや、こっちはそうでもないかな、

って、言いかけたときの着信音だった。

 

 

 メールの着信なのかスマホをちらっと見ると、

 

ーあ、今日は、これで帰ります、

 それでは、

 ごきげんよう

 

というまに、スッといなくなってしまった。

 

 

 

 

 

部屋に戻って思いっ切りシャワーを浴びた。

 

いつもはこれでスッキリする。

 

今日はジンジンのステージだったから気分は悪くないのに、いまいちスッキリしない。

 

さっきの「半音はずし」か。

 

 それにしてもなんともいいようのない不思議な雰囲気に包まれた人だった。

ほどよくまるく、ほどよく整った顔立ちで、こざっぱりとほどよく髪を刈り上げていて、穏やかな中音のほどよい声質だった。

年嵩とか男なのか女なのかもわからなかった。

 

スッキリしないのはこれだなって思いあたったところで、ついと、あのシーンが浮かんだ。

 

レストランでケイト・ブランシェットルーニー・マーラ をじっと見つめながら、

「あなたって不思議な人ね」、そして、

くっと一呼吸おいて、”Flung out of space”

 

字幕ではたしか「空から落ちてきたよう」ってあった、

それでもいいけど、あのケイト・ブランシェットは格別だ、

あくまで、 “Flung out of space”、ってことにしている。

 

 

ああ、そうか、これじゃないか、

あの「半音はずし」は、”Flung out of space”、じゃないか。

 

 

少し無理な気はしたけど、ほかに思いあたらないからそれでいいか、ってことにした。

 

 

となると、とりあえずスッキリとした。

 

 

 

 

 

シャワーのあとのビールがたまらない。

 

 

今日は、弾きまくりジンジンのステージだった。

 

それに、“Flung out of space”だった。

 

その別れに、

ごきげんよう” だ。

 

 

これはこれは、なんとも気分がいい。