「The October」
「野球の好きな少年」は生地キューバの岸辺から母親を乗せた小さなボートを漕ぎ出した。
彼は横波を受けたボートから落ちた母親の身体を抱え揚げしながらようようにしてアメリカはフロリダの地に着岸した。
その地で彼はぐんぐん大きくなった。
彼はやがてメジャーリーグに昇格してフロリダ・マーリンズの先発をつとめるようになった。
彼のスライダーはホームベース近くで鋭くしなやかな大きな弧を描いて落ちた。
今シーズン彼は右肘の故障が癒え初めてのポストシーズンでの活躍を夢見ていた。
その矢先フロリダの岸壁に大きなプレジャーボートが激突して彼、ホセ・ヘルナンデスは24歳で急逝した。
ドン・マッティングリー監督は彼、ホセ・ヘルナンデスを「野球の好きな少年のような男だった」と言って涙した。
「The October」
NLWC(ナショナルリーグ・ワイルドカード)第1戦、ボルティモア・オリオールズ先発ピッチャーの初球スライダーがホームベース近くで鋭く大きく弧を描いて落ちた、
そのピッチャー マウンドに「野球の好きな少年のような男」ホセ・フェルナンデスの幻影がほの見えた。
「野球の好きな少年のような男」たちがみな渾身の力のかぎり投げて打って走る、
豪速球で三振を奪ってはガッツポーズ、
とてつもないホームランを放っては大きく吠える、
アンフェアーなプレイにはベンチからプレイヤー全員が飛び出て激しく殴り合う、
「野球の好きな少年のような男」たちのMLBのポストシーズンが始まった。
「野球の好きな少年」たちの夢の「The October」が今年もまた幕を開けた。
「生前退位」
「主観と客観との間には一種の十全な関係が生ずるとか、客観とは内からみれば主観であるにちがいない何ものかであるとかということは、思うに、かつてはもてはやされた時代もあったが、一つのお人好しの捏造である。」
「 現象に立ちどまって『あるのはただ事実のみ』と主張する実証主義に反対して、私は言うであろう、否、まさしく事実なるものはなく、あるのはただ解釈のみと。」
「 総じて『認識』という言葉が意味をもつかぎり、世界は認識されうるものである。しかし、世界は別様にも解釈されうるのであり、それはおのれの背後にいかなる意味をももってはおらず、かえって無数の意味をもっている。—『遠近法主義。』」
「世界を解釈するもの、それは私たちの欲求である、私たちの衝動とこのものの賛否である。」
(フリードリヒ・ニーチェ「権力への意志」)
「言葉」で世界を解釈しようとするかぎりこのアフォリズムを転倒することはできない。
法は共同体の共同幻想でありその共同幻想に基づいた法言語によって記述される。
法は共同体の共同幻想でありその共同幻想性により法の解釈可能性は制約される。
法はその共同幻想性によりその法の解釈の可及的一義性安定性を希求する。
それでも法の解釈方法を規定限定する法は存在しない。
皇室典範 第4条「 天皇が崩じたときは、皇嗣が、直ちに即位する」
これを「皇位の継承は天皇の崩御に限られる」「生前退位は認めない」と解釈することができる。
これを「天皇の崩御による皇位の継承は皇嗣の直ちの即位による」「皇位の継承には間隙は生じない」と解釈することができる。
法は共同幻想として共同体構成員の個的幻想と逆立しうる構造を持っている。
その共同幻想を信仰する者はその共同幻想維持の欲求、衝動によって法を解釈する。
その共同幻想と逆立する個的幻想を信仰する者はその個的幻想維持の欲求、衝動によって法を解釈する。
いずれの解釈もその解釈をする者のそれぞれの欲求、衝動による。
それでもなお法はその共同幻想性により法の解釈の可及的一義性安定性を希求する。
その共同幻想を信仰する者、逆立する個的幻想を信仰する者、そのいずれの者も法の解釈の可及的一義性安定性から逸脱することができない。
そのいずれであってもその法の解釈の可及的一義性安定性から逸脱すれば、それはその共同幻想崩壊の萌芽となる、それに依って立つ共同体崩壊の萌芽となる。
先の大戦が終わって70年、
戦争の記憶と物質的繁栄のなかでこの国の共同幻想は舞台裏に奥まったままであった。
先の大戦が終わって70年、
戦争の記憶と物質的繁栄のなかでそれぞれがそれぞれの欲求、衝動によってそれぞれに世界を解釈してきた。
先の大戦が終わって70年、
戦争の記憶が薄れ物質的繁栄に限りが見えてこの国の共同幻想がその姿を舞台表に現しつつある。
そしてその共同幻想のほんとうの姿がその共同幻想たる法の解釈によってあらわになろうとしている。
その共同幻想を信仰する者、逆立する個的幻想を信仰する者、そのいずれの者も法の解釈の可及的一義性安定性から逸脱することができない。
そのいずれであってもその可及的一義性安定性から逸脱すれば、それはその共同幻想崩壊の萌芽となる、それに依って立つ共同体崩壊の萌芽となる。
「執行」
「アイヒマンは、一貫してユダヤ人殺害への関与を否定、ユダヤ人の絶滅に『協力し幇助したこと』だけだと主張、あくまで合法な命令に従っただけだと主張した」
「ユダヤ人の絶滅について、ユダヤ人自身から、単なる従順以上のもの、協力を得ていたのも事実で、それが無ければあれだけ膨大な数の他民族の抹殺など不可能であった」
「アイヒマンらドイツ人の多くが、ユダヤ人の虐殺に反対もせずに、大量殺人をめざす機構に仕え、与えられた自分の任務を実行していった。一人ひとりの役割はそれほど残酷でも犯罪的でもなかっただろう。また、彼らのほとんどが、自分の手では一人のユダヤ人も殺さなかったし、殺せなかっただろう。」
(ハンナ・アーレント『イェルサレムのアイヒマン -悪の陳腐さについての報告』)
「ドイツ第三帝国」の指導者と高級官僚はアイヒマンら部下に対してユダヤ人絶滅のための『協力・幇助』の任務遂行を命じた。
アイヒマンは「ドイツ第三帝国」の指導者と高級官僚からユダヤ人絶滅の「合法な命令」を受けそのために与えられた自分の任務を遂行した。
「ドイツ第三帝国」の指導者と高級官僚はアイヒマンら部下にユダヤ人殺害の「執行」を命じることはなかった。
その「執行」は、
次々に移送されてくるユダヤ人をガス室に押し込み、
外壁に耳をあてその阿鼻叫喚を聴いて絶命を待ち、
白く膨れ上がった死体を次々と運び出して焼却処理することであった。
「ドイツ第三帝国」の指導者と高級官僚はアイヒマンら部下にユダヤ人殺害の「執行」を命じることができないことを知っていた、
その「執行」の命令が「合法な命令」にはなりえないことを知っていた。
アイヒマンらが部下がその「執行」の命令を「合法な命令」として受け止めないことを、「合法な命令」として受け止めることができないことを知っていた。
「ドイツ第三帝国」の指導者と高級官僚は、ともに捧げ持つ「ドイツ第三帝国」なる強靭強固の共同幻想をもってしても、ユダヤ人絶滅というジェノサイドの国家方針を正当化、合法化しえないことを知っていた。
「ドイツ第三帝国」の指導者と高級官僚は共同幻想の幻惑性によってアイヒマンら部下にユダヤ人絶滅のための「協力と幇助」を命じることはできたが、共同幻想の相対性によって、ユダヤ人絶滅というジェノサイド殺害の「執行」を命じることはできなかった。
いかなる共同体の指導者や高級官僚も依って立つ共同幻想を超えてその権力を「執行」することはできない。
その越権の「執行」はその共同幻想の崩壊を齎す。
その越権の「執行」はその共同幻想に依って立つ共同体の崩壊を齎す。
共同幻想の崩壊、共同体の崩壊の兆しはその越権の「執行」によって顕在化する。
「天皇」
三島
「天皇問題では、つまりいまは顕教と密教とが逆になっちゃった。顕教というのは、天皇が人間であり、象徴である。密教がいま学校では教えていないんだけど、現人神信仰というのが残っているのが密教だよ。」
福田
「ただ、僕にとって問題なのはエゴイズムの処理なんですよ。個人のエゴイズムというのは、時には国家の名において押さえなければならない。それなら国家のエゴイズムというのは何によって押さえるかというと、この原理は、天皇制によっては出てこないだろう。日本の国家のエゴイズムを押さえるということは、天皇制からは出てこない。僕は天皇制を否定するんじゃなくて、天皇制ともう一つ並存する何かがなくちゃいけない。絶対天皇制というのは、どうもまずい。」
三島
「僕はその問題はこういうふうに考えている。つまり僕の言っている天皇制というのは、幻の南朝に忠勤を励んでいるので、いまの北朝じゃないと言ったんだ。幻の南朝とは何ぞやというと、没我の精神で、僕にとっては、国家的エゴイズムを制肘するファクターだ。そのために、天皇にコントロールする能力がなければならない。」
「天皇というのは、国家のエゴイズム、国民のエゴイズムというものの、一番反極のところにあるべきだ。」
(河出文庫「三島由紀夫対談集 源泉の感情」ー福田恒存 文武両道と死の哲学 三島由紀夫ー「抜粋」)
「 即位以来、私は国事行為を行うと共に、日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を、日々模索しつつ過ごして来ました。伝統の継承者として、これを守り続ける責任に深く思いを致し、更に日々新たになる日本と世界の中にあって、日本の皇室が、いかに伝統を現代に生かし、いきいきとして社会に内在し、人々の期待に応えていくかを考えつつ、今日に至っています。」
「 天皇が象徴であると共に、国民統合の象徴としての役割を果たすためには、天皇が国民に、天皇という象徴の立場への理解を求めると共に、天皇もまた、自らのありように深く心し、国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。」
「こうした意味において、日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅も、私は天皇の象徴的行為として、大切なものと感じて来ました。皇太子の時代も含め、これまで私が皇后と共に行って来たほぼ全国に及ぶ旅は、国内のどこにおいても、その地域を愛し、その共同体を地道に支える市井の人々のあることを私に認識させ、私がこの認識をもって、天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした。」
「 始めにも述べましたように、憲法の下、天皇は国政に関する権能を有しません。そうした中で、このたび我が国の長い天皇の歴史を改めて振り返りつつ、これからも皇室がどのような時にも国民と共にあり、相たずさえてこの国の未来を築いていけるよう、そして象徴天皇の務めが常に途切れることなく、安定的に続いていくことをひとえに念じ、ここに私の気持ちをお話しいたしました。 国民の理解を得られることを、切に願っています。」
( 「象徴としてのお務めについての天皇陛下お言葉」NHK NEWS WEBより「抜粋」)
「天皇」は顕教としての「象徴天皇」とともに密教としての「現人神信仰」の体現者たるべきとの認識が示されている。
「天皇」は「北朝」ではなく「幻の南朝天皇」としてあるべきとの認識が示されている。
「天皇」は「国家のエゴイズム」「国民のエゴイズム」を制肘するファクターであるべきとの認識が示されている。
しかし、そのためには「天皇にコントロールする能力がなければならない。」
(前出「三島」の発言)
憲法第一条の「象徴天皇」は、その第六条で「内閣総理大臣」及び「最高裁判所の長たる裁判官」を任命し、同第七条の「国事に関する行為を行う」が、その不作為については法権力は及ばない。
この任命や国事行為を行う顕教としての「象徴天皇」の背後には密教が黙座している。
顕教としての「象徴天皇」は国政に関する権能は有しないが、密教としての「現人神信仰」の体現者として、その「信仰者」でありうる国民に「国家のエゴイズム」「国民のエゴイズム」について直接話しかけることができる。
天皇には「国家のエゴイズム」「国民のエゴイズム」を制肘、コントロールしうる能力はある。
その能力の遂行がどのような効果を生み出すのか生み出しうるのか
「幻の南朝天皇」たらんとする今生天皇は、その効果を、
「国家」や「国民」に委ねるしかない、
「国家」や「国民」の認識あるいは理解に委ねるしかない、
そしてまた「国家」や「国民」の信仰に委ねるしかない。
先の大戦を終えて70年、今生天皇は国家や国民には偲ぶべくもない深い思いを静かに述べた。
「無明」
「人には無明という、醜悪にして恐るべき一面がある。・・・人は自己中心的に知情意し、感覚し、行為する。その自己中心的な広い意味の行為をしようとする本能を無明という。」
「人は無明を押えさえすれば、やっていることが面白くなってくると言うことができるのです。たとえば良寛なんか、冬の夜の雨を聞くのが好きですが、雨の音を聞いても、はじめはさほど感じない。それを何度もじっと聞いておりますと、雨を聞くことの良さがわかってくる。そういう働きが人にあるのですね。雨の良さというものは、無明を押えなければわからないものだと思います。数学の興味も、それと同一種類なんです。」
その階段には急な傾斜がかかっていて後ろのほうの席からも舞台が間近に迫って見えた、
ホールに突如「白鳥の湖」が地響いて、舞台に傲然たる光が差し込む、
部長刑事・木村伝兵衛(三浦洋一)が受話器にがなりたてる、
熊田刑事(平田満)が歩みでる、「ここは私にお任せください」
たしか新宿の小さなホールだった。
つかこうへい氏「熱海殺人事件」を観て身と心が悦び沸き立った、
それは、「無明」という「自己中心的に知情意し、感覚し、行為する」人々が糾う悲喜劇だった、
そう感じて「無明」の身と心が悦び沸き立った。
時は過ぎて、つかこうへい氏はこの世を去った。
その「遺書」には、氏が「無明を押えながら生きてきた」記しが残されていた。
つかこうへい氏の「熱海殺人事件」は、眩い光や大きな音響で効果を引き立たせながら、しかし「静かに無明を押えながら」、そして「この世に遺すもの」として、作劇演出されたものであることを知った。
舞台劇を観たのはその「熱海殺人事件」が最後だった。
あのとき、「無明」という「自己中心的に知情意し、感覚し、行為する」人々が糾う悲喜劇を観て、「無明」の身と心が悦び沸き立った。
つかこうへい氏の「遺書」により、自己中心的に知情意し、感覚し、行為しながらも、「無明に生きることを知り、その無明を押えながら生きる」人々が糾う悲喜劇を空観して、また「無明」の身と心が悦び沸き立った。
「家庭の幸福」
「所謂『官僚の悪』の地軸は何か、所謂『官僚的』という気風の風洞は何か。私は、それをたどって行き、家庭のエゴイズム、とでもいうべき陰鬱な観念に突き当たり、そうして、とうとう、次のような、おそろしい結論を得たのである。」
「曰く、家庭の幸福は諸悪のもと」
(「家庭の幸福」太宰治著)
「太宰治にとって『家庭の幸福は諸悪のもと』という考え方は、この文学者が生涯をかけた文学思想のイロニイであった。」
(光文社「家族のゆくえ」吉本隆明著)
太宰治は「家庭」「家族」「性」を文学の褥とした。
太宰治は「家庭」「家族」「性」という孤絶の個的幻想を文学の褥とした。
「幸福の性」を求める男女の手紙が「幸福の家庭」にある男の妻に知られる、
男女と妻の心身は激しい倫理的葛藤に揺さぶられる、
その葛藤によって「幸福の性」「幸福の家庭」の正体が顔を覗かせる、
その正体は孤絶の個的幻想か、
それとも「官僚的という気風」に晒され「社会倫理」「法倫理」が忍び込んだ紛れの個的幻想か、
孤絶の個的幻想は紛れの個的幻想を打ち払うことができる、
孤絶の個的幻想は他の孤絶の個的幻想と並び立つことはできない、
互いに孤絶の個的幻想の相克の行方には「幸福の性」「幸福の家庭」という名の静かな川が流れている。
太宰治はその静かな川の流れに身を委ねた。
「幸福の性」を求める男女のメールが「幸福の家庭」にある男の妻に知られる。
そのメールが社会に暴かれる。
その孤絶であり得た個的幻想も「官僚的という気風」に晒され「社会倫理」「法倫理」が忍び込んで紛れの個的幻想に変わる。
紛れの個的幻想と紛れの個的幻想は紛れの諍いに陥る、
互いに紛れの個的幻想の相克の行方には「官僚的という気風の風洞」が空虚に待ち受ける。
「幸福の性」「幸福の家庭」は孤絶の個的幻想の深い葛藤のなかに秘そむ。
「幸福の性」「幸福の家庭」は紛れの個的幻想のなかでその命脈をたもつことはできない。
孤絶の個体幻想を「官僚的という気風」に晒し「社会倫理」「法倫理」で覆い隠す紛れの個的幻想に「幸福の性」「幸福の家庭」がおとずれることはない。
「権威」
「権威は必ず服従を伴い、つねに服従を要求する。にもかかわらず、それは強制や説得とは相容れない。なぜなら、強制と説得はともに権威を無用にするからである。世界史におけるこの特異な時代状況のもとで、権威は他と明確に区別された独自のものとなる。(「緒言」フランソワ・レテ)」
「権威が現に存在するのは、それが『承認』されているかぎりにおいてのみである。つまり、『承認』されているかぎり、権威は【現に存在する】」
「裁判官の権威。(【ヴァリアント】――調停者の権威。監督官、検閲官、等々の権威。聴罪司祭の権威。正義の人または誠実な人の権威。等々。) 聴罪司祭の権威に関する注記。これまた、【混合的】権威の好例である。聴罪司祭は、【裁判官】の権威に加えて、【父】の権威はもとより、「良心の導き手」の資格において【指導者】の権威も帯びる。だが、彼には【主人】の権威が欠けている。 正義の人に関する注記。実をいえば、これは裁判官の権威の最も純粋なケースである。なぜなら、厳密な意味での裁判官は、裁判官としての権威――自然発生的な権威――に加えて、役人としての権威――派生的な権威――をも備えているからである。
【『権威の概念』アレクサンドル・コジェーヴ/今村真介訳(法政大学出版局、2010年)】
「2点目。裁判所が被告に敗訴判決に従うかを確認した理由に関係する。
国は敗訴しても変わらない。国は何もできないことが続くだけ。
これは弁護士の方はよくご存じだと思うが、平成24年の地方自治法改正を検討する際に問題になった。
不作為の違法を確認する判決が出ても、地方公共団体は従わないのではないか。そうなれば判決をした裁判所の信頼権威を失墜させ、日本の国全体に大きなダメージを与える恐れがあるということが問題になった。
そういう強制力のない制度でも、その裁判の中で、被告が是正指示の違法性を争えるということにすれば、地方公共団体も判決に従ってくれるだろうということで、そういうリスクのある制度ができた。
それで、その事件がこの裁判にきたということになる。そういうことで、そのリスクがあるかを裁判所としてはぜひ確認したいと考えた。もしそのリスクがあれば、原告へ取り下げ勧告を含めて、裁判所として日本の国全体に大きなダメージを与えるようなリスクを避ける必要があると考えた。
もちろん代執行訴訟では、被告は「不作為の違法確認訴訟がある。そこで敗訴すれば、従う。だから、最後の手段である代執行はできない」と主張されまして、それを前提に和解が成立しました。
ですから当然のこととは思いましたけれども、今申し上げたように理解があるということでしたので、念のため確認したものの、なかなかお答えいただけなくて心配していたんですけども、さすがに、最後の決断について知事に明言していただいて、ほっとしたところであります。どうもありがとうございました。判決は以上です。じゃあ終わります。」
(「辺野古不作為違法確認訴訟」多見谷裁判長の説明)
1つ
「そうなれば判決をした裁判所の信頼権威を失墜させ、日本の国全体に大きなダメージを与える恐れがある」
「裁判所の信頼権威」は裁判所の「判決の公正妥当性」評価により国民によって承認される。
「公正妥当な判決」に従わない被告は社会疎外されうるが他の国民の「裁判所の信頼権威」は失墜しない。
「日本の国全体に大きなダメージを与える恐れがある」のは国民が「判決の公正妥当性」に疑問を抱いたことにより「裁判所の信頼権威」が失墜するときである。
2つ
「そういう強制力のない制度でも、その裁判の中で、被告が是正指示の違法性を争えるということにすれば、地方公共団体も判決に従ってくれるだろうということで、そういうリスクのある制度ができた」
「権威」と「強制」や「説得」とは相容れない、
「強制力のある制度」はそもそも「権威を無用」にする。
「強制力のない制度」で被告が判決に従うか否かのリスクは裁判所の「判決の公正妥当性」評価にかかるものであり「被告が是正指示の違法性を争えるから」そのリスクが軽減されるものではない。
3つ
「そういうことで、そのリスクがあるかを裁判所としてはぜひ確認したいと考えた。もしそのリスクがあれば、原告へ取り下げ勧告を含めて、裁判所として日本の国全体に大きなダメージを与えるようなリスクを避ける必要があると考えた」
「そのリスクがあるか」は裁判所の「判決の公正妥当性」評価にかかり「敗訴すれば従う」という言質の取付け有無によるものではない。
その「取付け言質」もまた「強制力のない」ものである。
「公正妥当な判決」に従うとの「言質」を与えた被告がその「言質」を翻せばより社会疎外されうるが他の国民の「裁判所の信頼権威」は失墜しないし「日本の国全体に大きなダメージを与えるようなリスク要因とはならない」
「日本の国全体に大きなダメージを与える恐れがある」のは国民が「判決の公正妥当性」に疑問を抱いたことにより「裁判所の信頼権威」が失墜するときである。