「ディオニュソス」

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ディオニュソスはアジアから来た。この狂乱と淫蕩と生肉啖らいと殺人をもたらす宗教は、正に「魂」の必須な問題としてアジアから来たのである。理性の澄明をゆるさず、人間も神々も堅固な美しい形態の裡にとどまることをゆるさないこの狂熱が、あれほどにもアポロン的だったギリシャの野の豊穣を、あたかも天日を暗くする蝗の大群のように襲って来て、たちまち野を枯らし、収穫を啖らい尽くした・・・。」

「忌まわしいもの、酩酊、死、狂気、病熱、破壊、・・・それらが人々をあれほど魅して、あれほど人々の魂を「外へ」と連れ出したのは何事だろう。どうして人々の魂はそんなにまでして、安楽な暗い静かな棲家を捨てて、外へ飛び出さなくてはならなかったのであろう。心はそれほどまでに平静な停滞を忌むのであろう。」

「それは歴史の上に起こったことであり、個人の裡に起こることでもあった。人々はそうまでしなければどうしてもあの全円の宇宙に、あの全体に、あの全一に指を触れることができないと感じたからに違いない。酒に酔いしれ、髪を振り乱し、自ら衣を引き裂き、性器を丸出しにして、口からは噛みしだく生肉の血をしたたらせながら、・・・そうまでして、人々は『全体』へ自分のほんのつめ先でも引っかけかけたかったのにちがいない。」

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(「暁の寺 豊穣の海(三)」三島由紀夫著 新潮文庫

 

 

 

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オリンポスの主神ゼウスが人間と神を区別しようと考えた際、、 ゼウスの子ティーターンの一柱であるプロメーテウスはその役割を自分に任せて欲しいと懇願し了承を得た。

彼は大きな牛を殺して二つに分け、一方は肉と内臓を食べられない皮で包み、もう一方は骨の周りに脂身を巻きつけて美味しそうに見せた。

そしてゼウスを呼ぶと、どちらかを神々の取り分として選ぶよう求めた。

プロメーテウスはゼウスが美味しそうに見える脂身に巻かれた骨を選び、人間の取り分が美味しくて栄養のある肉や内臓になるように計画していた。

ゼウスは騙されて脂身に包まれた骨を選んでしまい、怒って人類から火を取り上げた。この時から人間は、肉や内臓のように死ねばすぐに腐ってなくなってしまう運命を持つようになった。

ゼウスはさらに人類から火を取り上げたが、プロメーテウスは、自然界の猛威や寒さに怯える人類を哀れみ、火があれば、暖をとることもでき、調理も出来ると考え、ヘーパイストスの作業場の炉の中にオオウイキョウを入れて点火し、それを地上に持って来て人類に「火」を渡した。人類は火を基盤とした文明や技術など多くの恩恵を受けたが、同時にゼウスの予言通り、その火を使って武器を作り戦争を始めるに至った。

これ怒ったゼウスは、権力の神クラトスと暴力の神ビアーに命じてプロメーテウスをカウカーソス山の山頂に磔にさせ、生きながらにして毎日肝臓を鷲についばまれる責め苦を強いた。

プロメーテウスは不死であるため、彼の肝臓は夜中に再生し、のちにヘラクレースにより解放されるまで拷問が行われていた。その刑期は3万年であった。

プロメーテウスが天界から火を盗んで人類に与えた事に怒ったゼウスは、人類に災いをもたらすために「女性」というものを作るようにヘーパイストスに命令したという。

ヘーシオドス『仕事と日』(47-105)によればヘーパイストスは泥から彼女の形をつくり、神々は彼女にあらゆる贈り物(=パンドーラー)を与えた。アテーナーからは機織や女のすべき仕事の能力を、アプロディーテーからは男を苦悩させる魅力を、ヘルメースからは犬のように恥知らずで狡猾な心を与えられた。

そして、神々は最後に彼女に決して開けてはいけないと言い含めてピトス(「甕」の意だが後代に「箱」といわれるようになる。)を持たせ、プロメーテウスの弟であるエピメーテウスの元へ送り込んだ。

美しいパンドーラーを見たエピメーテウスは、プロメーテウスの「ゼウスからの贈り物は受け取るな」という忠告にもかかわらず、彼女と結婚した。

そして、ある日パンドーラーは好奇心に負けて甕を開いてしまう。

すると、そこから様々な災い(エリスやニュクスの子供たち、疫病、悲嘆、欠乏、犯罪などなど)が飛び出した。しかし、「ἐλπίς」(エルピスー「希望」、「期待」あるいは「予兆」)のみは縁の下に残って出て行かず、パンドーラーはその甕を閉めてしまった。

こうして世界には災厄が満ち人々は苦しむことになった。

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(「プロメーテウス」Wikipediaからの抜粋)

 

 

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ディオニュソスは、オリンポスの主神ゼウスとテーバイの王女セメレーの子である。

ゼウスの妻へーラーは、夫の浮気相手であるセメレーを大変に憎んでいた。

そこで、彼女に「あなたの愛人は、本当にゼウスその人かしら?」という疑惑を吹き込んだ。セメレーは内で膨らむ疑惑に耐えきれず、ゼウスに必ず願いを叶えさせると誓わせた上で、「ヘーラー様に会う時と同様のお姿でいらしてください」と願った。

ゼウスは仕方無く雷霆を持つ本来の姿でセメレーと会い、人間であるセメレーはその光輝に焼かれて死んでしまう。

ゼウスはヘルメースにセメレーの焼死体からディオニュソスを取り上げさせ、それを自身の腿の中に埋め込み、臨月がくるまで匿ったという。

セメレーの姉妹であるイーノーに育てられたディオニュソスは長じて、ブドウ栽培などを身につけて、ギリシャやエジプト、シリヤなどを放浪しながら、神である父ゼウスから与えられたみずからの神性を認めさせるために、信者の獲得に勤しむことになる。

彼には踊り狂う信者や、サチュロスたちが付き従い、その宗教的権威と魔術・呪術により、インドに至るまで征服した。

また、自分の神性を認めない人々を狂わせたり、動物に変えるなどの力を示し、神として畏怖される存在ともなった。

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(「ディオニュソスWikipediaからの抜粋)

 

 

 

 

 

ディオニュソスはアジアから来た」

 

人間である母セメレーの子ディオニュソスは、神である父ゼウスによって、「肉や内臓のように死ねばすぐに腐ってなくなってしまう運命」を、そして、わずかにパンドーラーの残した甕の底のエルピスー「希望」、「期待」あるいは「予兆」をかすかに胸に抱きながら、「火を使って武器を作り戦争をする」、「災いをもたらす女性が住む」人間世界のただなかで生きる運命を与えられた。

 

宇宙の全体全一の全円であるカオス(混沌)から生まれ、またいつでも宇宙に駆け登りその宇宙の全体全一の全円に指先をかけることができる不死の神である父ゼウスは、オリンポスの丘にただ佇立したまま、その麓の大地の軛にあって生死の苦悩に蠢く人間世界を見下ろすばかりである。

 

みずからもその人間世界で苦悩しながらギリシャ、エジプト、シリアを彷徨していたディオニュソスは、ついに、父ゼウスのように、みずからも宇宙に駆け登り、その宇宙の全体全一の全円に指を触れることができる、自分のほんのつめ先でも引っかけることができるかもしれない、その秘儀を見い出した。

 

ディオニュソスは、醸造したブドウ酒を人々に大盤に振る舞い、人々の酒と音楽と踊りと性の忘我狂乱の宴のさまをみて、その宴によって、人間が「肉や内臓のように死ねばすぐに腐ってなくなってしまう運命」を受け入れ、そして、わずかにパンドーラーの残した甕の底のエルピスー「希望」、「期待」あるいは「予兆」をかすかに胸に抱きながら「火を使って武器を作り戦争をする」「災いをもたらす女性が住む」世界のただなかでもなお生きていくことができる、その人間救済の神性秘儀を見い出した。

この人間救済の神性秘儀を獲得したディオニュソスはみずからの神性を誇示しながら、そのはるか遠いアジアはインドから、「酒に酔いしれ、髪を振り乱し、自ら衣を引き裂き、性器を丸出しにして、口からは噛みしだく生肉の血をしたたらせ」ながら、父ゼウスらオリンポスの神々が佇立するオリンポスの丘へと駆け上がり、そしてオリンポスの丘から宇宙に一気に駆け登って、その宇宙の全体全一の全円に自分の指先をかけようと、また自分のほんのつま先でも引っかけようとしたのだ。

 

 

 

  

 

 

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「権力は、雑多な性的変種を生産し固定する。近代社会が倒錯しているのは、そのピューリタニズムにもかかわらずというのでもなく、またその偽善の反動によってでもない。それは現実に、かつ直接的に倒錯している。」

「中世以来、西洋世界においては、権力の行使は常に法律的権利において表現されていた。」が、近代社会は「法律的権利によってではなく技術によって、法によってではなく標準化によって、刑罰によってではなく統制によって作動し、国家とその機関を越えてしまうレベルと形態において行使されるような権力の新しい仕組み」である。

近代「資本主義が保証されてきたのは、ただ、生産機関へと身体を管理された形で組み込むという代価を払ってのみ、そして人口現象を経済的プロセスにはめ込むという代償によってのみ」である。

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(「性の歴史Ⅰ 知への意志」 ミシェル・フーコー著 渡辺守章訳 新潮社)

 

 

 

 

 

「近代社会は、・・・現実に、かつ直接的に倒錯している」

 

ディオニュソスはオリンポスの神々の仲間入りは果たしたもののそれら神々が住むオリンポスの丘の隅に席を与えられただけで、なおその中央には父ゼウスが、そしてあの冷徹な理性と流麗堅固の形式身体美に包まれたアポロンが佇立していた。

 

近代社会は密かにそのアポロンの理性による人間社会の統治理念を淵源としているかのようである。

しかしアポロンの理性は神の理性であり、神の支配統治を拒否して人間中心主義(ヒューマニズム)を宣言した近代社会がその治世のよすがとする理性は人間の理性であって、その淵源は絶たれている。

 

人間を超越する神の理性は人間社会の統治理念として正立しても、人間が人間の理性によって人間社会を統治するとすれば、その理念は個々の人間に対して「現実に、かつ直接的に倒錯し」、また逆立する。

 

不死の神ではなく、生死常ならない人間社会では経世済民についての理念形式が求められ、人間の理性が推し進めた近代資本主義においては「人間の個々の身体は生産機関によって管理された形で組み込まれ、そして個々の人間の生殖と死亡は人口現象として経済的プロセスにはめ込まれる」。

 

人間を超越するアポロンの神の理性が許容し放置してきたとしても、近代資本主義のこの経世済民理念は、ディオニュソスの「酒と音楽と踊りと性の忘我狂乱の宴」の秘儀を許容することもまた放置することもできない。

 

近代社会は「法律的権利によってではなく技術によって、法によってではなく標準化によって、刑罰によってではなく統制によって作動し、国家とその機関を越えてしまうレベルと形態において行使されるような権力の新しい仕組み」によって、ディオニュソスの「酒と音楽と踊りと性の忘我狂乱の宴」の秘儀に立ち入り、そこに表象される「雑多な性的変種を生産し固定して」分析し、その分析にもとづいて「生産機関へ個々の人間の身体を管理して組み込み、個々の人間の生殖と死亡を人口統計してそれらを経済的プロセスにはめ込む」。

 

しかし、音楽や踊りや性は人間の個々の個人幻想でありまた相対者との対幻想であって、いかなる経済社会共同幻想や理念も、またいかなる技術や標準化あるいは統制によっても、それらの内実をその裡に組み込んだりはめ込んだりすることはできない。

 

近代社会がなおの技術や標準化あるいは統制によって個々の人間の行動や生活の隅々にまで踏み入り情報収集に励んでも、音楽や踊りや性など人間の個々の個人幻想やで相対者との対幻想の内実を掌握することはできない。

近代社会がなおの技術や標準化あるいは統制によって個々の人間の行動や生活の隅々にまで踏み入り情報収集に励めば励むほど、人間社会は個々の人間の個人幻想、対幻想からの疎外を深め、ディオニュソスの「酒と音楽と踊りと性の忘我狂乱の宴」の人間救済の秘儀から強く疎外される。

 

近代社会は、その理性が「現実に、かつ直接的に倒錯している」ことによって、ディオニュソスの「酒と音楽と踊りと性の忘我狂乱の宴」の人間救済の秘儀を受け入れることができず、いまなお、「肉や内臓のように死ねばすぐに腐ってなくなってしまう運命」にあり、そして、わずかにパンドーラーの残した甕の底のエルピスー「希望」、「期待」あるいは「予兆」をかすかに胸に抱きながら、「火を使って武器を作り戦争をする」、「災いをもたらす女性が住む」人間世界のただなかで生きる、その運命にあるままである。

 

近代社会はこの経済社会幻想の限界と矛盾の焦慮から「科学」という近代幻想によって人間の心身に「現実に、かつ直接的に」侵入し分析して、その限界と矛盾の消滅を企図しているが、その科学幻想の行く末は、その煩わしい限界と矛盾を生みだしている人間と人間社会そのものの消滅であり終焉である。

 

 

人間が、そして人間社会がなおある限り、人間は、人間社会はディオニュソスの人間救済の神性秘儀を求めつづける。

 

ディオニュソスはいまも「「酒に酔いしれ、髪を振り乱し、自ら衣を引き裂き、性器を丸出しにして、口からは噛みしだく生肉の血をしたたらせ」ながら、アジアの野を、そして世界の野を駆け巡っている。

 

 

 

 

「文化」

 

 

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「文化は、ものとしての帰結を持つにしても、その生きた態様においては、ものではなく、又、発現以前の無形の国民精神でもなく、一つの形(フォルム)であり、国民精神が透かし見られる一種透明な結晶体であり、いかに混濁した形を取ろうとも、それがすでに「形」において魂を透かす程度の透明度を得たものであると考えられ、従って、いわゆる芸術作品のみではなく、行動および行動様式をも包含する。」

 

 「日本人にとっての日本文化は、・・・三つの特質を有する・・・。すなわち・・・再帰性と全体性と主体性である。」

 「文化の再帰性とは、文化がただ『見られる』ものではなくて、『見る』者として見返してくる、という認識に他ならない」

「又、『菊と刀』のまるごとの容認、倫理的に美を判断するのではなく、倫理を美的に判断して、文化をまるごと容認することが、文化の全体性の認識にとって不可欠であって、これがあらゆる文化主義、あらゆる政体の文化政策的理念に抗するところのものである。」

「文学の主体性とは、文化的創造の主体の自由の延長上に、あるいは作品、あるいは行動様式による、その時の、最上の成果へ身を挺することである・・・」

 

 「文化における生命の自覚は、生命の法則に従って、生命の連続性を守るための自己放棄という衝動へ人を促す。自我分析と自我への埋没という孤立から、文化が不毛に陥るときに、これからの脱却のみが、文化の蘇生を成就すると考えられ、蘇生は同時に、自己の滅却を要求するのである。このような献身的契機を含まぬ文化の、不毛の完結性が、『近代性』と呼ばれたところのものであった」

 

「文化主義とは一言を以ってこれを覆えば、文化をその血みどろの母胎の生命や生殖行為から切り離して、何か喜ばしい人間主義的成果によって判断しようとする一傾向である。そこでは、文化とは何か無害で美しい、人類の共有財産であり、プラザの噴水の如きものである。」

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(「文化防衛論」三島由紀夫著・筑摩書房刊) 

 

 

 

 

 かの大戦の終わりから長い時を経て日本は「近代」への信仰をなお深めてその運命を「近代」に委ねるしかないところへと流れついた。

 

「近代」は「文化」を冷笑する。

「近代」は「文化における生命の自覚」の虚妄を申立て「献身的契機」の不在を宣明して「文化」を冷笑する。

 

「近代」は「日本文化」と並び立つことができない。

「近代」はただ「見られる」ものであり「分別」であり「客観」である。

「近代」は『見る』者として見返しまるごとを容認しみずから身を挺する「日本文化」と並び立つことができない。

 

 

 

「この角道の精華に嘘つくことなく、本気で向き合って担っていける大相撲を、角界の精華を、貴乃花部屋は叩かれようが、さげすまれようが、どんなときであれども、土俵にはい上がれる力士を育ててまいります。」貴乃花親方)

 

 「近代」は長きにわたって「日本文化」から再帰性全体性主体性を剥ぎ取りその「文化」をただ客観的に鑑賞するだけの芸術作品に貶めるべく様々に企ててきたがいまだなお果たせない。

 

 

 

 「文化」は「生命の連続性を守るための自己放棄という衝動へ人を促す。」

「文化」は「蘇生と同時に自己の滅却を要求する。」

「文化」は「自己滅却の献身的契機」によって「完結性」を得る。

 

「近代」は「文化」を「近代化」すれば「文化」の「完結性」を無くしてこの人の世の主座を占めることができると信じている。

 

 

 「この角道の精華に嘘つくことなく、本気で向き合って担っていける大相撲を、角界の精華を、貴乃花部屋は叩かれようが、さげすまれようが、どんなときであれども、土俵にはい上がれる力士を育ててまいります。」(貴乃花親方)

 

 「近代」は長きにわたって「日本文化」からその「完結性」を無くして「日本」の主座を占めようと様々に企ててきたがいまだなお果たせない。

 

 

 

「日本」はすでにその運命を「近代」に委ねている。

「日本」は「近代」に「日本文化」から「完結性」を無くして主座を占めるよう委ねるしかない。

「日本」は「近代」がその主座を占めて「日本」を「血みどろの母胎の生命や生殖行為から切り離された、何か無害で美しい、人類の共有財産であり、プラザの噴水の如きもの」にするよう委ねるしかない。

 

 

しかしその「近代」はすでにその虚妄と擬もうを顕にしている。

 

 「近代」は「神」に代わりその間然なき理性によって人と人の世を解析整序して救済するとみずから宣明して前へと進み出てきた。

 しかし「近代」はすでにしてAI人工知能と万能細胞を創出するに至っている。

AI人工知能はどれほどの機能を獲得しても自然物であり人の知能ではない。

また万能細胞はいかに万能であっても自然物であり人の身体ではない。

人の脳をAI人工知能装置と交換してももはやその生命体は人ではない。

万能細胞によって身体を複製してももはやその生命体は人ではない。

 

 脳をAI人工知能装置と交換して万能細胞により身体を複製すれば人が長く夢想してきた「永遠の生命体」の誕生をみることとなる。

しかしその「永遠の生命体」はもはや「血みどろの母胎の生命や生殖行為から生まれでる」人でもなければ「生命の連続性を守るための自己放棄という衝動へ促される」人でもない。

その「永遠の生命体」が生きる世はもはや人の世ではない。

 

 

 

「神」であれ「近代」であれ救済を求めまた救済されるべきは人であり人の世である。

「近代」は救済を求めることもなければ救済される要もない「永遠の生命体」を創り出し人と人の世をその終末へと誘う虚妄と擬もうである。

 

 

「この角道の精華に嘘つくことなく、本気で向き合って担っていける大相撲を、角界の精華を、貴乃花部屋は叩かれようが、さげすまれようが、どんなときであれども、土俵にはい上がれる力士を育ててまいります。」貴乃花親方)

 

 

「近代」はその虚妄と擬もうによって人と人の世をその終末に誘うことができればその「完結」を迎えることができる。

「近代」がその「完結」に至らずまたそれまでその命脈を保つことができれば「日本文化」はなおみずからの「完結性」を誇示して「近代」に勝利することができる。

 

 

 

「受容」

" 人類の共同性がある段階で<母系>制の社会をへたことは、たくさんの古代史の学者にほぼはっきりと認められている。そしてあるばあいこの<母系>制は、たんに<家族>の体系だけでなく<母権>制として共同社会的に存在したことも疑いないとされる。”

” <母系>制はただなんらかの理由で、部落内の男・女の<対なる幻想>が共同幻想と同致したときにだけ成立するといえるだけである。”

” 家族の<対なる幻想>が部落の<共同幻想>に同致するためには<対なる幻想>の意識が<空間>的に拡大しなけければならない”

ヘーゲルが鋭く洞察しているように家族の<対なる幻想>のうち<空間>的な拡大に耐えられるのは兄弟と姉妹との関係だけである”

 

” それでアマテラスがこれをきき驚いて申すには、「わたしの兄弟のミコトが天に上ってくる理由は、きっと良い心からではあるまい。わたしの国を奪おうとしてやってくるにちがいない」というと、髪の毛を解いて、ミズラにまき、左右のミズラにもカツラにも、左右の手にも、みな勾玉のたくさんついた珠玉をまいて、背には矢が千本入る矢のを負い、胸には矢が五百本入るをつけ、臀には高い音を出す鞆を佩き、弓を振り立てて庭につっ佇ち、大地を蹴ちらしておたけびをあげて待ちかまえ、スサノオに「なんのために天に上ってきたのだ」と問うた。

 スサノウノミコトは答えていうには「わたしには邪心はありません。ただ父がわたしの哭いている理由をきかれたので、わたしは妣の国にゆきたいとおもって哭いているのですと申しますと、父がお前はこの国に住んではまかりならぬと追放されたのです。それだから妣の国へゆこうとおもう次第を知らせに上がってきたので、異心はありません」とのべた。”

吉本隆明著「改訂新版共同幻想論 母制論」 角川ソフィア文庫

 

 

姉アマテラスは生誕の祝祭と死の供儀を司る<母権>制共同国幻想を支配する。

弟スサノウは、姉アマテラスが支配する<母権>制共同国幻想の空間拡大と守護の命を拝し、姉アマテラスと妣が鎮座する<母権>家族から離たれ、その共同国幻想の域際に立つ。

その域外にさんざめく異界異族の共同国幻想は、姉アマテラスの支配する<母権>制共同国幻想をその崩壊を企らみさまざまに脅やかす。

その守護にあたる弟スサノウの心身は疲弊し、一人哭いて、姉アマテラスと妣が鎮座する<母権>家族への回帰を願う。

 

姉アマテラスと妣は<母権>制共同国幻想の空間拡大と守護のためその<母権>家族から離たった弟スサノウの回帰を受け入れることはできない。

姉アマテラスと妣は<母権>制共同国幻想の空間拡大と守護の命に背く弟スサノウをもはやその<母権>家族に受容することはない。

 

 

 

「私たちの政策に合致するか、さまざまな観点から絞り込みをしたい。全員を受け入れることは、さらさらありません。」(希望の党代表小池百合子

 

共同国幻想の政策、理念は言葉によって語られる。

生誕の祝祭と死の供儀は祈りと音楽に包まれる。

生誕の祝祭と死の供儀は言葉によって記述することはできない。

 

共同国幻想の政策、理念の言葉は抽象を余儀なくされてついには唯名に陥いる。

唯名に陥った共同国幻想の政策、理念の言葉は、沈黙によって形成される自己幻想、対幻想を遠く疎外する。

この遠く疎外された自己幻想、対幻想を慰謝し救済しうるのは祈りと音楽に包まれる生誕の祝祭と死の供儀である。

生誕の祝祭と死の供儀を司る<母権>制共同国幻想は、遠く疎外された自己幻想、対幻想の慰謝、救済幻想として、この世にいつも静かに沈潜してきた。

 

 

「母子の権利こそ、実は女権の究極であり、女性独自のものである」(高群逸枝『女性の歴史』講談社文庫版上、一九七二年)

「女権そしてその核心の母子の権利をないがしろにする男は居域から追われる。古く母権制につながる新しい母子の権利に基づく生活が、わが住居にやってきたのだ。七〇年代、男権の表れとしての家庭の解体が始まっていたが、一組の男女が暮らす居場所の新しい名前はなかった」(最首悟『大衆の玄像』青土社発行「現代思想」平成24年7月号)

 

 

男達が参画する共同国幻想の政策、理念の言葉はとうに唯名に陥り、その唯名の政策、理念の蕩尽によって、女権そしてその核心の母子の権利をないがしろにした。

その共同国幻想に参画した男達は、瞋恚の<女権>家族から、その居域から追放される。

その男達にはもやは居場所はない。

 

居場所をなくしたその男達はついには<女権>家族への回帰を願うしかない。

 

<母権>制共同国幻想の主宰者は、女権そしてその核心の母子の権利をないがしろにした男達の<女権>家族への回帰を受け入れることはできない。

<母権>制共同国幻想の主宰者は、女権そしてその核心の母子の権利をないがしろにした男達をもはやその<女権>家族に受容することはない。

 

 

 

「私たちの政策に合致するか、さまざまな観点から絞り込みをしたい。全員を受け入れることは、さらさらありません。」

 

 

 

 

「祖国」

 

””

This land is your land,

This land is my land,

From California to the New York Island,

From the redwood forest,

To the Gulf stream waters,

This land was made for you and me.

・・・

As I was walkin’
I saw a sign there
And that sign said no trespassin’
But on the other side
It didn’t say nothin!
Now that side was made for you and me!

In the squares of the city
In the shadow of the steeple
Near the relief office
I see my people
And some are grumblin’
And some are wonderin’
If this land’s still made for you and me.

・・・

「This Land Is Your Land」(わが祖国)

(Words and Music by Woody Guthrie)

”” 

 

あの頃、かの国のかの詩人は貧困と差別の大地放浪にあって、叙情を静かに抑えながらなお希望の「祖国」を叙景した。

叙情に絡みとられた「祖国」はその人の心に浮かぶだけの孤立の幻影となる。

叙情を抑えながら叙景される「祖国」は人々の共有の幻影となる。

 

 

「祖国」は人々がその「国家」の道義を信じてその「国家」のもとに個々の心身を糾合する姿として幻影される。 

「国家」は科学幻想、宗教幻想、法幻想、経済幻想、民族幻想によってその道義を揺さぶられ不義に陥る。

「祖国」はいまある「国家」の不義によって疲弊した人々が抱く懐かしくも儚く遠ざかっていく共同幻想として幻影される。

 

あの頃から時はめぐってかの国は「国家」の不義によって多くの人々が疲弊した。

 

 いまかの国の新指導者はその「国家」の道義を糺し疲弊した人々の懐かしくも儚く遠ざかっていく「祖国」を惹き戻すため勇躍捨て身で現れ出た。

 いま、かの国の新指導者は大統領府と閣僚と最高裁判所に人事を配し大統領令を繰り出して「国家」の不義をもたらした科学幻想、宗教幻想、法幻想、経済幻想、民族幻想を「国家」に同致して「国家」の道義を糺し、懐かしくも儚く遠ざかっていく「祖国」を惹き戻すため勇躍捨て身で船出した。

 

 

 

 

””

「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」

 (「祖国喪失-壱-」寺山修司

””

 

あの頃、この国のかの詩人は虚栄と虚妄の都市に身を潜め、叙情に絡みとられた「故郷」を遥かに夢みながら、港の霧に霞みゆく「祖国」喪失を叙景した。

 

あの頃から時はめぐってこの国もまた「国家」の不義によって多くの人々が疲弊した。

 

いまこの国では「祖国」の礎の「国家」道義の体現者たる「天皇」幻想はその像すら結ばない。

 

もう人々が叙情を抑えながら叙景できる「祖国」は失われた。

もう「祖国」は叙情に絡みとられた人の心に浮かぶだけの孤立の幻影となった。

 

もうこの国には「国家」の道義を糾すすべもなく捨て身して惹き戻すべきほどの「祖国」も喪われた。

 

この国はこの「国家」の不義をもたらした科学幻想、宗教幻想、法幻想、経済幻想、民族幻想の、いまはもうその虚構、虚妄が顕になった「近代」という幻想をなお頑なに信仰してその運命を委ねていくほかないところにまでながれついた。

 

 

 

 

「道義」

 

 

  ”” 私は本来国体論には正当も異端もなく、国体思想そのものの裡にたえず変革を誘発する契機があって、むしろ国体思想イコール変革の思想だという考え方をするのである。それによって平田流神学から神風連を経て二・二六にいたる精神史的潮流が把握されるので、国体論自体が永遠のザインであり、天皇制信仰自体が永遠の現実否定なのである。明治政府による天皇制は、むしろ絶対的否定的国体論(攘夷)から天皇を簒奪したものであった。明治憲法天皇制において、天皇機関説は自明の結論であった。」

「しかし、明治憲法上の天皇制は、一方では道義国家としての擬制を存していた。この道義国家としての擬制が、ついに大東亜共栄圏と八絋一宇の思想にまで発展するのであるが、国家と道義との結合は、つねに不安定な危険な看板であり、(現代アメリカの「自由と民主主義」」の使命感を見よ)これが擬制として使われれば使われるほど、より純粋な、より尖鋭な、より「正統的な」道義によって「顚覆」され「紊乱」される危険を蔵している。道義の現実はつねにザインの状態へ低下する惧れがあり、つねにゾルレンのイメージにおびやかされる危険がある。二・二六は、このような意味で、当為の革命、すなわち道義的革命の性格を担っていた。」

「あらゆる制度は、否定形においてはじめて純粋性を得る。そして純粋性のダイナミックスとは、つねに永久革命の形態をとる。すなわち日本天皇制における永久革命的性格を担うものこそ天皇信仰なのである。しかし、この革命は、道義的革命の限定を負うことによって、つねに敗北を繰り返す。二・二六はその典型的表現である。””

ちくま文庫「文化防衛論」『道義的革命』の論理ー磯部一等主計の遺稿についてー」三島由紀夫著)

 

 

 

 

「 近代」は神から自由となったとしても「近代」というなおの「擬制」であり、その「擬制」は「道義」から免れることはできない。

 

近代国家がいかなる政体を採りいかなる政治理念を掲げてもそれら「擬制」は「国家道義」から免れることはできない。

「独裁あるいは民主」政体のいずれの「戦争あるいは平和」理念のいずれの「擬制」もまた「国家道義」から免れることはできない。

 

 

 

明治憲法は近代国家の政体と理念を擬制しながら天皇を万世一系統治権総覧の元首とする「国家道義」を擬制した。

 

 

磯部一等主計はみずからの内なる道義と国家道義の合一を信じて蹶起した。

 

磯部一等主計は蹶起したあと「国家道義の体現者」天皇の「大御心」を弛まずに待った。

 

磯部一等主計は「永久道義的革命の限定」を負うもののつねとして敗北し刑死した。

 

 

 

 「いかなる政体も理念も擬制として使われれば使われるほど、より純粋な、より尖鋭な、より正統的な道義によって顚覆され紊乱される危険を蔵し、道義の現実はつねにザインの状態へ低下する惧れがありつねにゾルレンのイメージにおびやかされる危険がある。」

 「あらゆる政体も理念も否定形においてはじめて純粋性を得るものであり、その純粋性のダイナミックスとは、つねに永久革命の形態をとる。」

 「日本天皇制における永久革命的性格を担うものこそ天皇信仰なのである。しかし、この革命は、道義的革命の限定を負うことによって、つねに敗北を繰り返す。」

 

 

 磯部一等主計は「永久道義的革命の限定」を負うもののつねとして敗北し刑死した。

 

 

 

 

 いまかの国では「自由と民主主義」政体と理念の「擬制」が使われれば使われるほどとしてそのゾルレンのダイナミックスを失ないザインの状態に低下した。

いまかの国では「ポリティカルコレクトネス」によってその「自由と民主主義」政体と理念の「擬制の正統性」を維持しようとすればするほどとしてそのゾルレンのダイナミックスを失ないザインの状態に低下した。

 

「あらゆる制度は、否定形においてはじめて純粋性を得る。」

「純粋性のダイナミックスとはつねに永久革命の形態をとる。」

 

 かの国の次代指導者はその「自由と民主主義」政体と理念の「擬制」の否定形においてその「擬制の純粋性」を獲得しようとしている永久の道義的革命者であるのか

かの国の次代指導者もまた「道義的革命の限定」を負うものとしていずれ敗北していくのか

 

 

 

 

 現憲法は「自由と民主主義」政体と理念の擬制のもと天皇を日本国及び日本国民の統合の象徴とする「国家道義」をなお擬制した。

 

 

 いま象徴天皇は「国家道義の体現者」としてのあり方振る舞い方について国家の主権者日本国民に問いかけその理解を待っている。

 

 

 いまこの国の「自由の民主主義」政体と理念の擬制の運命は象徴天皇が問いかけ理解を求める国家の主権者日本国民の「国家道義」の認識と意思にこそ委ねられている。

 

 

 

「モノリス」

 

 

「『魁種族』が地球に放り込んだ『モノリス』に触発された『ヒトザル』は道具を創って獣を倒して喰らい武器を創って反目するヒトザルを殺戮し、その歓喜のあまり放り上げた骨が最新衛星に一変する」

「月に移住した人類はクレーターで『モノリス』を発掘し、その調査のため、船長ボーマンら5名の乗組員と人工知能HALを乗せた宇宙船ディスカバリー号木星探査に向かう」

「飛行の途上人工知能HALの反乱によって4人の乗組員が殺害されるが、人工知能HALの思考部を停止して亡き者とした船長ボーマンは一人なお木星に向かう」

「その木星の衛星軌道上に巨大な『モノリス』、『ビッグブラザー』が出現しスターゲイトが大きな口を開け放つ」

「船長ボーマンはそのスターゲイトに吸い込まれて宇宙の彼方へ転送され、そこで肉体を脱した精神のみの生命体『スターチャイルド』に生まれ変わる」

                                      ””

(「2001年宇宙の旅」ー2001:A  Space OdysseyーウイキペディアWikipediaからの抜粋)

 

 

 

 「ヒトザル」は「道具を創って獣を倒して」自然と動物から疎外された。

「ヒトザル」は「武器を創って反目するヒトザルを殺戮して」みずからの生と死から疎外された。

「ヒトザル」は「創造と破壊」「生と死」の時間律、因果律から疎外された。

 

 

 人類となった「ヒトザル」はまだ月に移住していない。

 人類はいまもこの地球で「道具を創って獣を倒して喰らい武器を創って反目する人類を殺戮している。」

 人類はいまもこの地球で「創造と破壊」「生と死」の時間律、因果律に疎外されたままである。

 

 

人類はこの「創造と破壊」の疎外から免れるためAI人工知能を創り始めている。

人類はこの「生と死」の疎外から免れるため万能細胞を創り始めている。

 

AI人工知能と万能細胞の「創造」もなお人類を疎外する。

AI人工知能と万能細胞の「創造」によって人類は「肉体を脱した精神のみの生命体」となり「肉体と精神をもった生命体」である人類から自己疎外される。

「肉体を脱した精神のみの生命体」はまた「肉体と精神をもった生命体」を息づかせる「地球」からも疎外される。

 

 

人類はAI人工知能と万能細胞の「創造」によりみずから自己疎外されまた地球からも疎外されることを感知して怖れはじめている。

 

 

人類はこの自己疎外と地球からの疎外を怖れて地球から脱出すべく火星へ移住するためのロケット準備を完了しつつある。

 

それでも火星に移住するのは「肉体を脱した精神のみの生命体」でなく、「創造と破壊」「生と死」の時間律、因果律に疎外されたままの「肉体と精神をもった生命体」である。

 

 

人類はこれら疎外から逃れるためにはもはや「ヒトザル」が触発されてそれを齎した「モノリス」の秘儀を探索するしかない。

 

「魁種族」が放り込んだ「モノリス」はこの地球の地層深く埋没しているのかはたまた月あるいは火星のクレーターに潜むのか。

 

「魁種族」が新たな「モノリス」を放り込む気配は微かながら漂っている。

「魁種族」が地球にやってくる気配、月か火星の訪問者となる気配も微かながら漂っている。

 

「魁種族」が新たな「モノリス」を放り込むか地球か月か火星の訪問者とならなければ人類は「モノリス」の秘儀探索の旅に出るしかない。

 

その人類の探索衛星の軌道上には「魁種族」が設えた「ビッグブラザー」「モノリス」のスターゲイトが大きな口を開けて待ち構えている。

 

人類がそのスターゲイトに吸い込まれると宇宙の彼方に転送される。

そして人類はみずから希みながらも怖気付いて生まれ変わることができなかった「肉体を脱した精神のみの生命体」、「スターチャイルド」に生まれ変わることができる。

「堕落」

”” 人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。

戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。

だが、人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。人間は可憐であり脆弱であリ、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。人間は結局処女を刺殺せずにはいられず、武士道をあみださずにはいられず、天皇を担ぎださずにはいられなくなるであろう。

だが、他人の処女でなしに自分自身の処女を刺殺し、自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして人の如くに日本も亦堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である。 ””

(「堕落論坂口安吾著 銀座出版社発行)

 

 

共同幻想に囚われた人間は永遠に堕ちぬくことはできない。

個人の始めと終わりの生と死も共同幻想に囲い込まれた世界で人間は堕ちぬくことはできない。

堕ちぬくことができない人間は共同幻想に浮かぶ他人の処女を刺殺し武士道をあみだし天皇を担ぎ出して共同幻想化する。

 

 

「人間は生き、堕ちる。そのこと以外に人間を救う便利な近道はない。」

 

人間は正しく堕ちきることができる。

 

他人の処女、武士道、天皇はあまねく共同幻想でありその共同幻想を抱く自分もまた共同幻想である。

共同幻想を抱く自分は自分自身の逆立像であり共同幻想に浮かぶ虚像であって自分自身ではない。

 

人間は自分を共同幻想から解き放ち自分自身として堕ちていけば正しく堕ちきることができる。

正しく堕ちぬくことができれば人間は自分自身を発見することができるし救われる。

 

 

 

”” 『お前の眼の中にあたしは軽蔑を読みとりたいのよ、軽蔑と、怖気を』

これが母の、母としての、又、女としての最終的な願望であった。人を堕落に誘うとは、真理に目ざめさせることであり、彼女はもはや究理者ではなくて、その信ずる真理の体現者でなければならず、要するに究極的に『神』でなければならないのである。””

中央公論社発行「小説読本ー小説とは何かー(ジョルジュ・バタイユ)」三島由紀夫著)

 

 

 

 

人間は「堕落」によって真理に目覚め救われる。