「曾皙」

 

 

””

儒と呼ばれる聖人の道は、「天下ヲ治メ民ヲ安ンズルノ道」であって、「私カニ自ラ楽シムニ有ル」所以のものではない。 

・・・

孔子は、道を行うのに失敗した人である。

晩年、その不可なるを知り、六経を修めて、これを後世に伝えんとした人である。

・・・

晩年不遇の孔子と弟子たちとの会話である。

もし、世間に認められるようになったら、君達は何を行うか、という孔子の質問に答えて、弟子達は、めいめいの政治上の抱負を語る。一人、曾皙だけが、黙して語らなかったが、孔子に促されて、自分は全く異なった考えを持っている、とこう対えた、 

「暮春ニハ、春服既ニ成リ、冠者五六人、童子六七人、沂(魯の首都の郊外にある川の名)ニ浴シ、舞雩ニ風シ(雨乞の祭りの舞をまう土壇で涼風を楽しむ)、詠ジテ帰ラン」。 

孔子、これを聞き、 

「喟然トシテ、嘆ジテ曰ハク、吾ハ点(曾皙)ニ与セン」、そういう話である。 

””

(「本居宣長(上)」小林秀雄著  新潮社 SHINCHO ONLINE BOOK )

   

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孔子は、「仁、義、礼、智、信」五徳の儒教によって「天下を治め民を安んずる道」を行うことに失敗した。

 

孔子は、儒教という共同幻想によって「天下を治め民を安んずる」ことができると信仰して政治に参画したが、儚く破れて天を仰いだ。

 

不遇の身となった孔子は、なお儒教による政治の希望を語る弟子達にかける言葉が見あたらず、「沂浴詠帰」、ただ自然に浸り詩歌を詠じて楽しむだけだ、と答えた「曾皙」の思想に、嘆息しながらも賛同した。 

 

 

 

 

近代は、人の理性によって「天下を治め民を安んずる道」を行うとするものである。

 

近代は、理性という共同幻想によって「天下を治め民を安んずる」ことができると信仰して政治に参画した。

 

理性は、「感情や欲求に流されることなく、道理や倫理観にしたがって判断したり行動する能力」として人の心の世界に確かにあるものと、この世に広く認識流布されているものであり、それ自体が共同幻想である。

人の心の世界に理性があると認識するのがその理性であるのであれば、畢竟、理性もまた信仰であり、その信仰の流布は共同幻想である。

 

 

共同幻想は、人のさまざまな感覚と感情や物の具象を捨象した、客観と抽象に装われた言葉や文字によって構成される観念として産み出される心の世界である。

そして、それはそうであることによって、この世のどこにでもまたさまざまに作り出され、また広く流布されうるものであり、またそれぞれが相対のものとして乱立するものである。

その客観と抽象の上位階層として国家幻想、法幻想、経済幻想、宗教幻想、 民族幻想などが立ち上がり、その下位階層にはそれぞれの共同体固有の国家幻想、法幻想、経済幻想、宗教幻想などが入れ子となったり絡み合いながらもなおそれぞれが相対として乱立する。

 

 

政治に参画した近代の理性は、その理性によってこれらの入れ子となったり絡み合いながら乱立する相対の共同幻想を整理統御して「天下を治め民を安んずる」べき責めをみずからに任じたものである。

 

しかしながら、理性によって乱立する共同幻想をいかに整理統御してもなおそれぞれの共同幻想の相対とその相克という罠から抜け出ることはできないし、その理性もまた信仰であり、それもまた相対の共同幻想であるという無限の循環の罠から抜け出すことはできない。

 

 

 

個人幻想は、その人のさまざまな感覚と感情を幾重にも織り成した生地から産み出される心の世界である。

 

対幻想は、二人が、それぞれのさまざまな感覚と感情を交互に幾重にも織り成した生地から産み出される同じ心の世界である。

 

共同幻想は、人のさまざまな感覚と感情や物の具象を捨象した、客観と抽象に装われた言葉や文字によって構成される観念として産み出される同じ心の世界である。

 

その自己幻想、対幻想、共同幻想は、人の一つの心の世界に同時にしかしその観念としての位相を異にしながら、またそれぞれがそれぞれの影響を常に受けながら住まい分けしているものである。

人は、その一つの心の世界でありながら、その観念の位相の異なりと住まい分けによって、自己幻想、対幻想、共同幻想を同時に意識に昇らせることはできないし、それらを同時に表現することもできない。

 

また自己幻想、対幻想、共同幻想は、その観念の位相の異なりによって、それぞれが共立し順立をすることもあれば互いに並び立たず逆立することもあるものである。

 

自己幻想、対幻想、共同幻想が人の一つの心の世界でそれぞれ並び立たず逆立することになれば、人はその心の平穏を保つことができない。

 

人の心の世界のなかの自己幻想、対幻想、共同幻想は観念としての優先も優劣もないから、その相対の相克は果てしなく人の心の平穏を乱すものである。

 

この心の平穏の乱れによって、人は「感情や欲求に流されることなく、道理や倫理観にしたがった判断したり行動する」ことができなくなる。

このとき、人の理性は揺るぎ、また人は理性を失う。

そしてまたこのとき人の理性への信仰は揺るぎ、人はその信仰を失う。

 

 

それでもなお、神、自然を疎外しその支配から逃れて、人の理性によって「天下を治め民を安んずる道」を選択した近代はその任を果たすべき宿命にあり、もはや神、自然の摂理にその運命を委ねることはできない。

 

しかしながら、近代がその責任を果たしうる道はほぼなくなりつつあり、近代はそれを明らかに悟りつつある。

 

近代は、武力戦争によって無数の人を攻撃し殲滅してもその責任を果たせなかった。

近代は、経済戦争によって無数の人を攻撃し殲滅してもその責任を果たせなかった。

武力戦争も経済戦争も人の理性によって巧妙怜悧にまた冷酷無比にしかけられたものである。

 

近代は、人の理性の限界を悟りつつある。

 

近代は、そのみずからが信仰であり無限の循環の罠である人の理性を、絶対として「感情や欲求に流されることなく」、絶対として「道理や倫理観にしたがって判断したり行動する能力」とする「純粋理性」に創り替えて、その「純粋理性」によって「天下を治め民を安んずる道」を行うべく企てている。

しかし、その「純粋理性」もまた人の理性によって創り替えられるものであれば、それはやはり無限の循環の罠に囚われた観念であり、この世に夢遊して漂うだけの幻覚である。

 

 

 

 

 

近代は、理性という共同幻想によって「天下を治め民を安んずる」ことができると信仰して政治に参画したが、もうその責を果たすことはできない。

 

その不遇の近代で、なお頑なに理性による政治の希望を語ることは、その理性による人への無理解であり、その無理解の理性による人への冒涜である。

 

 

 

「沂浴詠帰」

 

ただ自然に浸り詩歌を詠じて楽しむだけだ。

 

 

 

 

ジャズ⑤

 

 

 

このごろは酔いがまわるとストンと寝落ちする。

いい気分で飲み始めるとなお早い。

 

 

さきほどから、いい気分で飲み始めている、

それにもうベッドに潜り込んでいる、

 

なのに、きょうはなかなかそういかない。

 

 

 

また、さっきのアレか。

 

 

「半音はずし」は  ”Flung  out  of  space”   ってことで、とりあえず気持ちよく落ち着いた。

 

 

でも ”「半音はずし」にトントンでオーケーでしょ” ってやつが残ってた。

 

こいつは、やっぱり、わかるようでわからない。

 

 

ひょっとしてこれも ”Flung  out  of  space”  か?

ぽんと空から放り投げられた謎かけ、ってやつか?

 

 

 

いや、もうヘタに考えるのはやめにしている、

考えるなんてことはムダだ、

考えるといずれドツボにはまる、

もう、しこたま考えてしこたまバカをみた。

 

 

だからジャズをはじめたんだ、

だからジャズを生業にしているんだ。

 

 

 

考えるんじゃなくて、ただ感じればいい、

これまでそうしてきた、

ものごとは、ただただ感じればいい、感じとればいい。

 

 

 

あの「半音はずし」は、 ”Flung  out  of  space” だ、って感じられたんだ。

 

”「半音はずし」にトントンでオーケーでしょ”ってやつも、そのはずだ、

そのままを、ただすなおに感じてみればいい。

 

 そう思って、じっと眼をつぶった、

 

 

考えない、

心の動きを鎮めて、

ただ感じるんだ ・・・・・・

 

 

 

 

 

 

夜がすっかり更けて布団にすっぽりと潜り込む、

耳元にはちゃんと小さなラジオを引き寄せている、

 

聴こえてきた、

はるか遠いところから、

 

ゆったり、のんびりしたハーモニカが、

調子ずらしのおどけたリズムで、

こっちに呼びかけるように、

 

追って、

 

  "  Love Love me do

   You know  I love you

    ・・・

なんて、呆気も素っ気もない詞で、

ゆったり、のんびりした、調子ずらしのおどけたリズムに乗せて、

こっちに歌い掛けてくるように、

 

 

 

聴こえてきたのは、気分だった。

それは、こっちとおなじ気分だった。

 

感じていたのは、気分だった。

それは、こっちとおなじ気分だった。

 

 

あとで知った。

 遠くリヴァプールの「Cavern」でやってたあの4人だった。

 

 

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あの4人のあのときの気分だった。 

 

その気分に、こっちのおなじ気分がトントンと応えてジンジンと響いた、

 

って、たしかにあのとき感じた。

 

 

 

ものごとは感じればいい、

感じれば、伝わる。

感じれば、気分も伝わる。

気分が伝われば、つながる。

 

そう、それでオーケーだ。

 

 

 

おう、ちゃんとハマった。

 

 

”「半音はずし」にトントンでオーケーでしょ”

 

こいつにちゃんとハマった ・・・・・・

 

 

 

 

 

 

ってところで、ふいと目が覚めた。

 

こうなると夜はけっこう長い。

 

 

 

「相対」

 

 

 

先の大戦が終わって70年あまり、近代は、「共同幻想」の「相対」とその「限界」を悟りつつあり、なおの焦慮を強めている。 

 

 

人は、それぞれ自己の個人幻想を紡ぎ出す。

近代の個人幻想は、その人のさまざまな感覚と感情を幾重にも織り成した生地から産み出される心の世界であり、その人だけの「絶対」のものである。

 

人は、二人の間で対幻想を紡ぎ出す。

近代の対幻想は、二人が、それぞれのさまざまな感覚と感情を交互に幾重にも織り成した生地から産み出される心の世界であり、その二人それぞれにだけの「絶対」のものである。

 

対幻想は、二人の間にのみ産み出される。

人は、二人以上を相手として、同時に、そのさまざまな感覚と感情を取り交わすことができない。

人は、三人以上の間で、「絶対」の心の世界を産み出すことができない。

 

人は、三人以上になると、個人幻想・対幻想が「相対」にさらされ、その「絶対」は揺さぶられる。

 

 

人は、三人以上の共同体においてさまざまな共同幻想に遭遇する。

近代の共同幻想は、人のさまざまな感覚と感情や物の具象を捨象した、客観と抽象に装われた言葉や文字によって作り出される心の世界である。

そして、それはそうであることによって、この世にひろく流布されうるものである。

また、それがそうであることによって、人は、そのさまざまな感覚と感情や具体的な特質が捨象された、客観と抽象に装われた名辞あるいは数として扱われるものである。

そしてまた、その客観や抽象に装われた言葉や文字は、人のさまざまな感覚と感情や物の具象を捨象したものであるから、それらによって作り出される共同幻想は空疎の観念そのものである。

よって、近代の共同幻想は、この世のどこにでもまたさまざまに作り出されるものであり、それらはまぎれもない「相対」のものとして、この世に乱立するものである。

 

  

 

共同幻想が人の心身に対して観念あるいは実体として侵入してきたとき、人はそれを心の世界で受け入れることができるか、受け入れるとして心のどこにどのように受け入れるのか迫られる。

 

その侵入してくる共同幻想がどの共同体をどのように支配しているものか、それは人の「絶対」の個人幻想や対幻想と共立するものか、それらは互いに侵害しあうものか、影響しあうものか、それらの判断をさまざまに迫られる。

 

 

 「絶対」である神、自然が主宰する共同幻想では、人の個人幻想・対幻想は「相対」となりうるから、この相克は構造的には起こらない。

 

近代は、「人間中心主義」を標榜して、「絶対」である神、自然を強く疎外した。

近代は、「人間中心主義」により、人の個人幻想・対幻想を「絶対」のものと措定して、その共同幻想を「相対」のものとして作り出した。

 

近代は、人の「絶対」の個人幻想・対幻想と共同幻想との、それに加えて「相対」である共同幻想それぞれの、果てしのない「相克」の世界である。

 

 

近代は、「共同幻想」の「相対」に耐えきれず、さまざまなところでさまざまな戦を仕掛けてきているが、その「相対」は揺るがない。

近代は、「共同幻想」の「相対」に耐えきれず、他の「共同幻想」を打倒するため、その人の心身を攻撃、殲滅する戦を仕掛けてきているが、なおそのみずからの「相対」をさらしたままである。 

 

 近代は、「共同幻想」の「相対」に耐えきれず、先の大戦を仕掛けて、無数の人々の心身を攻撃、殲滅したが、そこで生き延びた「共同幻想」もなんらの「絶対」を得ることはなく、その「相対」の姿をいまもさらしたままである。

 

 

先の大戦が終わってから、近代は、さらなる精密無比の機器や技術を開発して、人の心身を細部にわたって分析調査し、その結果にしたがって人をさまざまな機関に組み込み管理し、また人の生殖と死までをも数値化し統計を図り、人のその心身すべてを即物の経済プロセスのなかに完全に嵌め込むことによって、その人の個人幻想や対幻想を「相対」のかぎりとし、また「共同幻想」の揺らぎをとどめて、それを「絶対」のものとすべく懸命に急いできたが、なお果たせない。

 

その一方で、近代はすでにしてAI人工知能と万能細胞を創出して、人の個人幻想や対幻想を消滅させ、また共同幻想を「絶対」のものとする手筈を整えつつある。

AI人工知能と万能細胞によって創出される永遠の生命体には、「絶対」の個人幻想・対幻想の心の世界はない。

AI人工知能と万能細胞によって創出される永遠の生命体には、「絶対」の共同幻想を植え付けることができる。

 

しかし、近代が、AI人工知能と万能細胞による永遠の生命体を創出すれば、それは近代そのものの終焉であり、人の歴史の終焉となる。

 

近代は、近代がなお生き延びるためには、近代みずからによって、人の個人幻想や対幻想を「相対」のかぎりとし、「絶対」の共同幻想を作り出さなければならない宿命にある。

 

 

先の大戦が終わって70年あまり、近代は、「共同幻想」の「相対」とその「限界」を悟りつつあり、なおの焦慮を強めている。

 

 

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ジャズ④

 

 

さっきから気になっていた。

チック・コリアの「スペイン」をやりはじめてインプロに入ったときあたりから、ときおり、トン、トン、と小さな音が聞こえてきて、気になっていた。

 

「スペイン」を弾き終わったところで、まばらな拍手に応えるふうにしてそれとなく薄暗い客席を見まわした。

 

わりとステージに近い丸テーブルの上に透き通るほどに白くて華奢な手が、ぽっと仄かに浮かんで見えて、人差し指がちょいちょいと上下していた、

 

ああ、あれだ。

 

 

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そう思っても相手は客だ、

それ以上はない、

ちょいと居ずまいを整えて、次、キースの「マイ・ソング」に移った。

 

 

 

その夜はほぼ満席の客の入りだったし、客筋もなかなかだった。

 

ーキースだよね、ここで「ケルン」なんてどう?

なんて、からかってくる酔客もいたけど、

 

キース・ジャレットですね、じゃ「カントリー」いきましょう。

って適当にかわすと、結構な具合に盛り上がってくれた。

 

まあ、こっちもひさかたの、弾きまくりジンジン、ってステージだった。

 

 

 

 

 

ホテルに戻ってエレベーターに向かうところで、フロントの男が思わせぶりな目配せをくれたので、ロビーに眼をやった。

 

窓際のソファーに伏し目がちに座っていた人の右の手がわずかに遠慮がちに挙がった。

あの、透き通るほどに白くて華奢な手だった。

 

でもそれっきり、たちあがる気配もない。

 

埒あけに声かけしてみた。

 

ーなんか用でしたか?

 

 

 ーいえ、特にです。

 

と、こちらに向けられたその眼には覚えがあった。

 

たしか以前どこかで、この眼で見られたことがあった、

こっちに向けられたのに思わず後ろを振り返ってしまったあの眼、

あのときの眼だった。

 

でもいつだったかどこでだったか思い出せない。

 

 

 ーええっと、それで、あなたは?

 

 ーあのー、自己紹介はナシってことにしてるんですが、ダメですか?

 

ーうん、それはいいけど、

 どうしてナシか、って話もナシかな?

 

 ーいや、いいですよ、

    まあ、自分で自分のことよくわからない、からかな、

 いや、もうちょいマジにいきます、

 「私、なになにです」なんていう、そういうたぐいの言葉は捨てました、

 ってことで、どうでしょう?

 

 ーうん、とりあえずオーケー、ってことでいいけど、

 前に会ったことありました? 

 

 

ーえっ、ええ、お見かけしたことはあります、

 New Orleansです、Preservationでした。

 

 

あ、そうか、ニューオリンズだったか、

あそこは、まあ、思い出したくない、

とっさにそこはスルーして、ちょっと斜めにふってみた。

 

ーあなた、アメリカ?

 

 ーそれって、国籍とかってやつですか?

 

ーうん、まあ、いや、ニューオリンズとか発音がネイティブっぽかったから。

 

ーさっきお願いしたばかりですけど、

 自己紹介はナシでって。

 

 

 話を変えるしかない。 

 

ー うん、

 で、なんで、わたしに?

 

ー聞いてた通りでした、

   半音はずし、してましたね。

 

 

「マイ・ソング」はキース・ジャレット完コピだから、「ケルン」どう、なんてからかわれたのはいいとして、「半音はずし」か、

 

 

ーあれ、アドリブのところで和音、半音はずしてますよね。

 

ーああ、そこでトン、トン、やってたわけか、

 うん、それで?

 

ーそれで、って、

 だから、いいんです、それで、

 トン、トンで、もうそれでいいんです。

 

 ーなにが?

 なにが、それでいいの?

 

ーなにが、じゃなくて、

 それでオーケーってことです。

 だって、調子はずしのジャズで、もう一個はずしたくての半音はずし、でしょう、

 それに合わせてトン、トン、ってやったんです、

 それでもういいんです。

 

 

いや、こっちはそうでもないかな、

って、言いかけたときの着信音だった。

 

 

 メールの着信なのかスマホをちらっと見ると、

 

ーあ、今日は、これで帰ります、

 それでは、

 ごきげんよう

 

というまに、スッといなくなってしまった。

 

 

 

 

 

部屋に戻って思いっ切りシャワーを浴びた。

 

いつもはこれでスッキリする。

 

今日はジンジンのステージだったから気分は悪くないのに、いまいちスッキリしない。

 

さっきの「半音はずし」か。

 

 それにしてもなんともいいようのない不思議な雰囲気に包まれた人だった。

ほどよくまるく、ほどよく整った顔立ちで、こざっぱりとほどよく髪を刈り上げていて、穏やかな中音のほどよい声質だった。

年嵩とか男なのか女なのかもわからなかった。

 

スッキリしないのはこれだなって思いあたったところで、ついと、あのシーンが浮かんだ。

 

レストランでケイト・ブランシェットルーニー・マーラ をじっと見つめながら、

「あなたって不思議な人ね」、そして、

くっと一呼吸おいて、”Flung out of space”

 

字幕ではたしか「空から落ちてきたよう」ってあった、

それでもいいけど、あのケイト・ブランシェットは格別だ、

あくまで、 “Flung out of space”、ってことにしている。

 

 

ああ、そうか、これじゃないか、

あの「半音はずし」は、”Flung out of space”、じゃないか。

 

 

少し無理な気はしたけど、ほかに思いあたらないからそれでいいか、ってことにした。

 

 

となると、とりあえずスッキリとした。

 

 

 

 

 

シャワーのあとのビールがたまらない。

 

 

今日は、弾きまくりジンジンのステージだった。

 

それに、“Flung out of space”だった。

 

その別れに、

ごきげんよう” だ。

 

 

これはこれは、なんとも気分がいい。

 

 

 

 

 

「永遠」

 

 

”” 

 また見つかった、
 何が、永遠が、
 海と溶け合う太陽が。

 独り居の夜も
 燃える日も
 心に掛けぬお前の祈念を、
 永遠の俺の心よ、かたく守れ。

 人間どもの同意から
 月並みな世の楽しみから
 お前は、そんなら手を切って、
 飛んで行くんだ・・・。

 ・・・もとより希望があるものか
 立ち直る筋もあるものか、
 学問しても忍耐しても、
 いずれ苦痛は必定だ。

 明日という日があるものか、
 深紅の燠の繻子の肌、
 それ、そのあなたの灼熱が、
 人の務めというものだ。

 また見つかった、
 -何が、-永遠が、
 海と溶け合う太陽が。

””

 

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アルチュール・ランボー小林秀雄・訳)「永遠」『地獄の季節』)

 

 

 

 

 

 

 

人は心情を持て余す。

 

「もとよりありもしない希望」という未来を信じてしまえば、

「もとよりありもしない希望」を絶って過去を捨てなければ、

人はその心情を持て余す。

 

 

人は持て余す心情に突き動かされて言葉を紡ぎ文字を書き付ける。

 

 

なのに、言葉や文字は、その心情を包摂することはない。

その心情を分断して断片とするだけだ。

 

 

もとより、人の言葉と文字は、この世界を包摂することはない。

この世界を分断して断片とするだけだ。

 

 

人の言葉と文字は、人の世で「人間どもの同意」と「月並みな世の楽しみ」に喰い散らかされた残骸としてある。

 

人の言葉と文字は、いまの現在にはない、

その在り処は過去と未来にある。

 

人は、「人間どもの同意」と「月並みな世の楽しみ」に喰い散らかされた言葉と文字で過去を虚構する。

人は、「人間どもの同意」と「月並みな世の楽しみ」に喰い散らかされた言葉と文字で未来を虚構する。

 

 

  

人は、言葉と文字で自然を疎外して、自然から截然として疎外されている。

自然は「おのずからある」として、この世界を包摂する。

 

この世界を包摂する自然は、その分断と断片である人の言葉と文字を受けつけない。

この世界を包摂する自然は、「おのずからある」ものとして、いまの現在であり、過去も未来もない。

 

この世界のまったき包摂は、「永遠」である。

過去も未来もない、いまの現在は、「永遠」である。

 

 

 

 

 

 また見つかった、
 何が、永遠が、
 海と溶け合う太陽が。

自然の海と太陽は溶け合って、分断と断片である人の言葉と文字を超然と凌駕し、この世界の包摂のさまを開顕する。

自然の海と太陽は溶け合って、在り処を過去と未来とする人の言葉と文字を厳然と峻拒し、この世界の永遠のさまを開顕する。

広大無辺な海のはるか彼方に赫々たる太陽が沈みこみ溶けて行く、

また、見つかった、

「永遠が」

 

 

 

 

 独り居の夜も
 燃える日も
 心に掛けぬお前の祈念を、
 永遠の俺の心よ、かたく守れ。

 人は、その在り処が未来の「お前の祈念」など心に留めることはない。

「お前の祈念は」は、「人間どもの同意」と「月並みな世の楽しみ」に喰い散らかされた残骸世界のなかに晒されてあるだけだ。

「独り居の夜」も「燃える日」もいまの現在としてある、「永遠」の一日だ。

また、「永遠」を見つけた、

その「永遠の心」は、「お前の祈念を守ってくれる」。

 

  

 

 

    人間どもの同意から
 月並みな世の楽しみから
 お前は、そんなら手を切って、
 飛んで行くんだ・・・。

「お前の祈念」は、「人間どもの同意」と「月並みな世の楽しみ」で喰い散らかされた言葉と文字のなかに消え行く運命にある。

「お前の祈念を守ってくれる」のは「永遠の心」だ。

その「永遠」を見つけに、お前も「飛んで行くんだ」。

 

 

 

 

   ・・・もとより希望があるものか
 立ち直る筋もあるものか、
 学問しても忍耐しても、
 いずれ苦痛は必定だ。

 

「希望」も、「人間どもの同意」と「月並みな世の楽しみ」に喰い散らかされた残骸世界のなかにある。

その「希望」が、「人間どもの同意」と「月並みな世の楽しみ」を拒絶してその彼方へと投げかけられたとしても、すぐに「人間どもの同意」と「月並みな世の楽しみ」がその危険な匂いを嗅ぎつけて喰い散らかす。

喰い散らかされた残骸から立ち上がるすべはない。

「学問しても忍耐しても」なお、「人間どもの同意」と「月並みな世の楽しみ」が襲いかかって喰い散らかす。

未来を信じるかぎり「いずれ苦痛は必定だ」。

 

 

 

 

 明日という日があるものか、
 深紅の燠の繻子の肌、
 それ、そのあなたの灼熱が、
 人の務めというものだ。

「明日」は、「人間どもの同意」と「月並みな世の楽しみ」に喰い散らかされた残骸世界のなかにあるだけだ。

「永遠」を見つけたら、「明日という日があるものか」

たったのいまの現在があるだけだ。

 いまの現在にこそ、「深紅の燠の繻子の肌」を輝かせ、その「灼熱」に身をさらす、

それが「人の務めというものだ」。

 

 

 

 

 

 また見つかった、

 

 -何が、-永遠が、

 

 海と溶け合う太陽が。

 

 

 

 

 

 

 

 

ジャズ③

 

さきほど仕事を決めに出かけたとき、アタリは付けておいた。

 

途中、あ、ココだな、って風情の路地があるのを見逃してなかった。

 

 

それにしてもいったい、知らない街を歩き始めるとあの「遠くへいきたい」が聞こえてくるのは、どういうことか。

 

どうして知らない街へ行きたくなる、どうして遠くへ行きたくなるのか、って考えたことはある。

でも、なに、そんなもの気分の問題じゃないか、そんな気分になるなら、そのままにそれにしたがうのが一番ってことにした。

 

 

それにしてもいい曲だ、六八コンビの永六輔作詞、中村八大作曲で、歌はジェリー藤尾だった。

 

どうしてあんな歌が作れるのか、どうしてあんなふうに歌えるのか、って考えたことがある。

そのときは、あの人たちの持って生まれた感性があるとしても、あのころの時代の環境がその感性を世界に向けて広く大きく開かせたものだ、ってな、それなりの結論にしていたと思う。

でも、そんなことよりなによりも、いい歌はただそのまま聞いてそのままそれに浸っているのが一番ってことに変わりはなかった。

 

 

 

 

この稼業だと、いまでもはじめての知らない街にいくことがけっこうある。

 

ここもはじめてだった。

ホテルを出てさまよいだすと、もうおきまりの「遠くへ行きたい」が耳元で流れはじめた。

 

 

先ほどアタリをつけておいた路地に入ると、すぐ右手に3巾の暖簾がそよりと揺らめいていた。

客の手で汚れてよれよれの麻生地のまんなか巾に”酒”のただ一文字だ。

 

 

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これはいけそうだ。

 

ちょいと屈んで木戸を引くと、たしかな頑固面の親爺がカウンターの奥からじろっと眼をくれて、ぶっきらぼうに、

ーへい、らっしゃい。

 

ああ、これはいける。

 

 

ー親爺さんの一番気にいってるやつ、冷やでくれないか。

 

ーそうかい

このそっけなさも気に入った。

 

お通しからして、こだわっていた。

 

 

ともかく日本酒は酔いがまわる、

2合目を飲みほすかってあたりで、しっかりじんわり酔ってきた。

 

ここでなにか曲でもかかればいうことなしだったけど、音は親爺の趣味じゃなさそうだ。

 

 

そのうち、ゆらゆら体がゆれだし、ああこのまま寝落ちしてしまうか、あぶないな、ってすんでのところだった。

 

ー遅い!

さっきまでの調子と違う親爺の、小さかったが怒りのこもった声に驚いて、カウンターに落としていた顔をふいとあげた。

 

 

親爺の娘らしかった、

えい面倒とばかりに髪を後ろで輪ゴムでクイと束ねて、サッパリと洗い晒した割烹着で、親爺の声など聞こえないふうで、俯きながら洗いものをやっていた。

 

 

子は親のことはわからないし、親は子のことがわからない。

からしょうがない、喧嘩してもしょうがない、

それでも喧嘩するしかないのが人の世だ。

こっちも、なんだかんだあっても、そんな人の世で生きてる。

そう思えば、あとは限られる。

 

そう思って、ジャズをやりはじめた。

ジャズのピアノ弾きで人の世を流れ歩いてきた。

 

 

 

娘が洗いものを終えたらしく、手拭いに手をやりながらこっちのカウンターを見遣って、「なにかお造りしましょうか」って、その襟元に粋筋がスッと浮かんだかにみえたが、そのすぐ横で親爺の変わらぬ頑固面がそっぽを向いていた。

 

ーいや、

    ごちそうさま、

    お勘定。

 

 

 

 

店を出ると夜の闇がすっかりと深まっていた。

 

 

 

ジャズ②

 

 

 

ホテルでは、部屋に帰ると、着ていたものを一気に脱ぎ捨て、バルブ全開のシャワーをしたたかに浴びて、缶ビールをプシュ、ごくん、プアー、ってコースを鉄板のルーティンとしている。

 

この極めつけのコースは、缶ビールがキンキンに冷えてるとサイコー、となる。

 

今日のはコンビニで買ってきたやつだったから、まずまずっていうしかなかったけど、この稼業だ、このルーティンだけは外せない。

 

 2本目でゆらゆらとなり、3本目をプシュっとやったときには、もうそばのベッドが悩ましげに手招きをはじめていた。

 

せっかくの招待だ、ことわるわけもない。

 

倒れこむとあっという間、心ごと体ごと、もうこれいじょう生き縋ることもないかと思えるほどの勢いで、スー、と深ーく、落ちていった。

 

 

 

隣の部屋に客が入ってきたかなにかの物音で眼が覚めたようだった。

もう、5時をすっかりまわっていた。

ああ、やっぱりあの人は来なかったな、と思えるのにじゅうぶんな時間となっていた。

 

約束してたわけじゃない。

昨日チェックインしたときフロントから、”オースガさんから明日4時というメッセージが届いてます”、といわれただけだ。

 

 

約束なんかまずしないことにしている。

 

たまに心と体をジンジンさせるだけのことだ。

で、そのときだけだ、

まんざらでもない、って思えるのは。

約束なんかして、あとのことに気がいってしまうと、いま、そのときのジンジンもそぞろになってしまう。

 

だから、仕事のほかで約束はしないことにしている。

 

 

たぶんあの人もそう、約束なんかしないんだ。

 

これまで3回ほど”明日何時”なんてメッセージを残すだけだった。

それで、それがあたりまえのように、やってきたことは一度もなかった。

 

こんども来なかった。

 

 

 

 

そんなあの人とは2年ほど前に出会っている。

 

 

雇われたクラブに早入りすると、なにやら事務室あたりが騒がしくてちょっとそば耳をたててみた。

どうやら、前のピアノマンらしかった。

客とトラブってクラブマネージャーから首にされたらしかった。

 

これはひとごとじゃないな、こっちも、ちかごろのわけのわからない客とトラブったからって首になりたくなんかないからな、と一人ごちの思いがフット湧いてしまって、ドアをわざと強めにノックするなりドンと開けて、いきなり言ってみた。

 

ーマネージャー、なんかあったのか

 

 不意を食らったマネージャーはついと眼をそらしてその仏頂面をなお顰めてみせた。

 

数秒の間が抜けてしまって、あれっ、てとまどったところ、こっちに小さなまるい背中を向けたままの男が、誰にいうふうでもなく、ぼそっと呟いた。

 

ーいいんだよ、

 俺のことだ。

 

それがあの人だった。

業界ではそれなりに知られた、”オースガ”って名乗ってる、そのときにはもう老残しきりの男だった。

 

 

次の日、2回目のステージが掃けて裏口から帰ろうとしたとき、暗がりのなかに昨日の小さなまるい背中がほの見えた。

首をちょっと左に傾げて、人差し指と親指で丸括弧をつくった左手首をクイッと手前に返すと一人スタスタ歩きはじめた。

 

察しはついた。

 

ジジッ、ジジッと音立ててまだ生きてるぞってさまのネオンが、表玄関ドアになんとか引っ掛かりしている、こじんまりのショットバーだった。

カウンターのなかで腰掛けてた、すっかり白髪の眼窩の奥まった老人がすっと立ち上がってあの人を迎えた。

 

ーマスター、ジムビームのブラックあったかい、

 ストレート、チェイサーなしだ。

    君は。

 

ーじゃ、こっちも同じやつで。

 

マスターも察しがいい。

こっちにはさりげなくチェイサーが添えられた。

 

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”オースガ”って、「オスカー・ピーターソン」バレバレなのに、飲みのほうは「ストレイト、ノー  チェイサー」って「モンク」なのがおかしくて、ツッコミ入れようかと思ったが、あの人がカウンターのほうへ眼をやったきりそ知らぬふうだったのでやめておいた。

 

 

それからツーラウンドばかり、二人、ほぼ同じタイミングで「マスター、同じやつ」、っていったきりだった。

それぞれカウンターのあらぬほうを見つめるばかりして、たがいに眼を合わせることもなく、話をかわすこともなかった。

  

 

ーじゃ、帰ろうか、

 ああ、ここはいいから。

 

そんなふうにあの人が言ったのか、そんな素振りをしただけだったのか、どっちにしてもあの人に促されてショットバーを出ると、こっちの2、3歩前を歩きだしたあの人は、その後ろ姿のまま、首をちょっと左に傾げ、じゃーな、とかるく左手を翳すや、スタスタと駅のほうへと去っていった。

 

 

 

 

あれから3度ほど、あの人は”明日何時”なんてメッセージをよこしてきただけだ。

そして、それがあたりまえのように、ほんとにやってきたことは一度もなかったし、こんども来なかった。

 

 

 

約束などしない。

たまに心と体をジンジンさせるだけだ。

そのために、ほんとはありもしない未来なんていう幻は捨てるにこしたことない。

 

 

まだ残る酔いと眠気に惑わされる心のなかで、とうに未来など捨ててなお老残を生きている、あの人の、あの小さなまるい背中が浮かんでは消えた。

 

 

 

 

 

さて、外がそろそろと暮れなずんできた。

 

たまさかのジンジンにありつけるか、ちょっと出掛けてみることにしよう。