「契機」

 

 

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人間は必然の〈契機〉があれば意志とかかわりなく千人、百人を殺すほどのことがありうるし、 〈契機〉がなければ、たとえ意志しても一人だに殺すことはできない。そういう存在だと云っているのだ。それならば親鸞のいう〈契機〉(「業縁」)とは、どんな構造をもつものなのか。ひとくちにいってしまえば、人間はただ、不可避にうながされて生きるものだ、と云っていることになる。もちろん個々人の生涯は、偶然の出来事と必然の出来事と、意志して選択した出来事にぶつかりながら決定されてゆく。しかし、偶然の出来事と、意志によって選択できた出来事とは、いずれも大したものではない。なぜならば、偶発した出来事とは、客観的なものから押しつけられた恣意の別名に過ぎないし、意志して選択した出来事は、主観的なものによって押しつけた恣意の別名にすぎないからだ。真に弁証法的な〈契機〉は、このいずれからもやってくるはずはなく、ただそうするよりほかすべがなかったという不可避的なものからしかやってこない。一見するとこの考え方は、受け身にしかすぎないとみえるかもしれない。しかし、人が勝手に選択できるようにみえるのは、ただ、彼が観念的に行為しているときだけだ。ほんとうに観念と生身をあげて行為するところでは、世界はただ不可避の一本道しか、わたしたたちにあかしはしない。そして、その道を辛うじてたどるのである。このことを洞察しえたところに、親鸞の〈契機〉(「業縁」)は成立しているようにみえる。
(「最後の親鸞吉本隆明著 ちくま学芸文庫
 
 
””
「私たちの主観的な自覚は、意識上に浮かんできた断片的な情報を説明しようとする左半球のあくなき追求から生まれてでている。『浮かんできた』と過去形で表現しているように、これは後ずけの解釈プロセスだ。インタープリターは、意識に入り込んできた情報からしかストーリーを紡ぐことはできない。意識は時間のかかるプロセスだから、意識にのぼったことはすべて過去のできごとだ。既成事実である。
・・・
これらはすべて進化の過程で選択された情報システムだということだ。たまたまそれを持っていた個体が、生存と生殖を勝ちとることができた。そして私たちの祖先となったのである。」
「行動の道筋を定める作業は自動的かつ決定論的だ。それをある時点でモジュール化して推進するのは一つの物理系ではなく、数百、数千、いや数百万の物理系である。実行された一連の行動は意志的な選択のように見えるが、実は相互に作用する複雑な環境がそのとき選んだ、創発的な精神状態の結果なのだ。内外で生まれる相補的な要素が行動を形づくっている。脳という装置はそうやって動いているのである。下向きの因果関係は私たちを惑わせるだろう。ジョン・ドイルが言うように、『原因はどこにある?』とつい探りたくなる。しかし実際は、常に存在しているいくつもの精神状態と、外からの文脈の影響力がぶつかりあっているなかで、脳は機能している。そのうえで、私たちのインタープリターは『自由意志で選択した』と結論づけているのである。」
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(「〈わたし〉はどこにあるのか ガザニガ脳科学講義」 マイケル・S・ザガニガ著
藤井留美訳 紀伊国屋書店刊)
 
  

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思考とは、何らかの事象や目標などの対象について考える働きまたは過程の事であり、対象となるものの意味を知る、または意味づけを行うことで働かせる理性的な脳や心の作用を言う。これには二つの意味がある。

広義には「心」が動くことそのものを言い、「内化された心像・概念・言語を操作すること」である。このような意味では、思考とは、心の中で自発的につくられた観念が、時間の経過とともにそれぞれが連鎖し変遷する「心的過程」のひとつと言うことが出来、人間は常に何かを思考している。逆に思考をしないためには心を空にする特別な修練を積む必要がある。

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(「思考」の抜粋 出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia))
 
  

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思考と呼ばれるものはつまりは抽象的認識であって、 脳に与えられた単なるデータ(客観)に過ぎず、それ自体が自発的行為を生み出すことはありえない。各自の生まれつきの性格に基づき、知覚による直接的認識と、概念による抽象的認識により与えられた動機を比較衡量し、最終的に行為は必然的に発生する。ゆえに、我々が何らかの行為を行う限りにおいての自由意志は全くの幻想であり、これを完全に否定している。羽虫に光が与えられれば火の中であろうと飛び込まない自由意志は無く、石に物理的衝撃が与えられれば転がらない自由が無いのと同じように、人間の行為は必然的に発生するのである。

・・・

人間の認識作用によって幾分かでも世界の本質である意志の性質を把握できるのは、行為(つまり意志の現象)を行った後で、自らの行為についての反省、すなわち自らの行為を抽象的に再認識するというプロセスを経なければならない。これにより意志が自らを否定し、意志が意志としての活動を停止することが起きうるという。それが仏教で言う涅槃や、聖者と呼ばれる人々の内面に起きた、人類に起きうる最も高貴な精神状態である、と説明されている。彼の哲学では、人間の自由はこの点にのみ認められている。なぜなら意志が意志としての活動をする限り、行為は動機に基づいて必然的に発生し、概念による抽象的動機に基づく行為が「自由意志」であると表面上思われるのは、じつは錯覚に過ぎないからである。

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(「意志」『ショーペンハウアー』の項の抜粋 出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)) 

 
 
 
 
 
「人は、常になにかを思考している。」
 
人は、「不安」におそわれると思考する。
人は、「不安」におそわれると思考するしかない。
  
 
 
””
「不安」とは「恐れているものに心惹かれている」ことである。
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(「不安の概念」キルケゴール) 

   

 
人は、「自然」への「不安」から自然を疎外したが、「自然」は泰然自若としてあるだけで、「不安」は解消されない。
人は、自然への不安からのがれるため、自然を超える「神」を観念したが、「神」は沈黙するだけで、なお不安は解消されない。
人は、「神」への不安から「神」を疎外して「神」の預託を観念したが、その預託はその解釈を巡る宗派の乱立と抗争を招くだけで、なお不安は解消されない。
 
 
近代は、「自然」と「神」の疎外によっても消えない不安から、人が人みずからを疎外したものである。
 
近代は、人には「自我」と「理性」があると観念して、人の身体と精神を疎外した。
 
近代は、人の身体と精神を疎外して、人を主体としての「個人」と表象した。
近代は、人を「個人」と表象することで、その心に「個人幻想」と「対幻想」を表出させた。
 
「個人幻想」は、「自己を恐れながら自己に惹かれる」という不安を生来させるものである。
「対幻想」は、「相手を恐れながら相手に惹かれる」という不安を生来させるものである。
 
近代は、人は「理性」によって「理念」を抽出観念できるとし、その「理念」に基づく権力装置である法と国家の「共同幻想」を表出させて広く流布した。
 
近代の「共同幻想」は、権力を背景に「共同体」の構成員にそれへの従容を促し、その従容に応じて利益を付与するものであるから、その構成員に「その共同幻想を恐れながらその共同幻想に惹かれる」という不安を生来させるものである。
 
 
 
 近代では、人はその心に「個人幻想」「対幻想」「共同幻想」を抱えて生きる。
 
その「個人幻想」「対幻想」「共同幻想」は位相をことにして人の心に住まうが、それぞれは相互に影響あるいは侵害しあう関係にあり、ときにそれらは逆立して相克の関係に陥る。
 
人は、「個人幻想」「対幻想」「共同幻想」それぞれの不安を抱えながら、なおそれら相互の影響あるいは侵害によって招来される不安に苛まされ、さらにはそれらの逆立と相克によって招来される不安に強く深く苛まれる。
 
 
近代では、人はこれらの不安に脅かされて思考する。
近代では、人はこれらの不安に脅かされて思考するしかない。

 

 

人は、「逆に思考をしないためには心を空にする特別な修練を積む必要がある。」

 
  
 
 
 
「思考とは、内化された心象・概念・言語を操作すること」である。
 
人の「内化された心象・概念・言語」は、いずれも限定的であり偶然的なものである。
 
近代は、「理性」は人の「反省」や「弁証」によってその限定と偶然が捨象された無限定の純粋の普遍的観念を獲得できると主張するが、その「反省」や「弁証」なる心の動きそれじたいが限定的で偶然的なものであって矛盾であるし、まして「理性」を認めるのがその「理性」であるのであれば、それはそもそもの自己撞着であり、虚妄である。
 
近代においても、人の「思考」は、なお、そのいずれもが限定的で偶然的な「内化された心象・概念・言語を操作すること」である。
 
 
 
「思考とは、心の中で自発的につくられた観念が、時間の経過とともにそれぞれが連鎖し変遷する『心の過程』のひとつ」である。
 
 
人の精神状態は「脳の一つの物理系ではなく、数百、数千、いや数百万の物理系が相互に複雑に作用する、そのときどきの創発的なもの」である。
 
人の「思考」は、その精神状態のなかで、「一定の時間の経過とともに、限定的で偶然的な内化された心象・概念・言語を操作すること」であって、その時間の経過の道筋は一つである。
 
人は、それとは別の時間の経過の道筋をたどって、別様に思考することができる。
 
人は、別の時間の経過の道筋をたどることによって、幾つもの思考を別様に重ねることができる。
 
 
近代は、人には「理性」があり、限定的で偶然的な「思考」は「反省」や「弁証」によって無限定の純粋の普遍的「思考」を獲得できると主張するが、観念と同様、その「反省」や「弁証」なる心の動きそれじたいが限定的で偶然的なものであって矛盾であり、まして「理性」を認めるのがその「理性」であるのであれば、それはそもそもの自己撞着であり、虚妄である。
 
近代においても、人の「思考」は、なお「一定の時間の経過とともに、限定的で偶然的な内化された心象・概念・言語を操作すること」であり、その「思考」の道筋は別様にあってもそれらは相互に同位のものであり、人が「観念的に行為」している限りにおいて、それは「自由に選択」できるものである。
 
 
 
 
「行動の道筋を定める作業は自動的かつ決定論的である。」
 
「思考と呼ばれるものはつまりは抽象的認識であり、観念的な行為であって、それは 脳に与えられた単なるデータ(客観)に過ぎず、その思考の自由な選択ができるとしても、その思考自体が自発的行為を生み出すことはありえない。 」
 
 
 「行動は意志的な選択のように見えるが、実は相互に作用する複雑な環境がそのとき選んだ、創発的な精神状態の結果なのだ。内外で生まれる相補的な要素が行動を形づくっている。脳という装置はそうやって動いているのである。」
 
 
人の「主観的な自覚は、意識上に浮かんできた断片的な情報を説明しようとする左半球のあくなき追求から生まれてでている。『浮かんできた』と過去形で表現しているように、これは後ずけの解釈プロセスだ。インタープリターは、意識に入り込んできた情報からしかストーリーを紡ぐことはできない。意識は時間のかかるプロセスだから、意識にのぼったことはすべて過去のできごとだ。既成事実である。」
 
「これらはすべて進化の過程で選択された情報システムだということだ。たまたまそれを持っていた個体が、生存と生殖を勝ちとることができた。そして私たちの祖先となったのである。」
 
 
 
 
人は、行動した後にみずからの行動を解釈するだけである。
人は、行動した後に、「みずからの生存と生殖を勝ちとるため」、脳のインタープリターによって後ずけの解釈を行うだけである。
 
 
 
近代は、「意志の自由」につき、「理性」によって「恣意の意志選択」を排して「合理的で普遍的な意志選択」をなしうるとし、人の「行動の自由」においても「恣意の行動選択」を排して「合理的で普遍的な行動選択」をなしうるとし、それを「行為」と表象してその「行為」に対する「責任」を負荷して共同体の秩序維持をはかろうとするものであるが、虚妄である。
 
 
 
 
 
””
「それは太陽のせいだ」
””
(「異邦人」アルベール・カミュ著 窪田啓作訳 新潮文庫

 
ムルソー」は、もはやみずからの生存と生殖を放棄している。
ムルソー」は、脳のインタープリターの後ずけの解釈を放棄している。
ムルソー」は、弁明しない。
ムルソー」は、じぶんを「異邦人」として排除する近代の「理性」の虚妄を嘲笑った。
 
 ー それは太陽のせいだ。
 
 
 
 
 
「人間は必然の〈契機〉があれば意志とかかわりなく千人、百人を殺すほどのことがありうるし、 〈契機〉がなければ、たとえ意志しても一人だに殺すことはできない。そういう存在だと云っているのだ。それならば親鸞のいう〈契機〉(「業縁」)とは、どんな構造をもつものなのか。ひとくちにいってしまえば、人間はただ、不可避にうながされて生きるものだ、と云っていることになる。もちろん個々人の生涯は、偶然の出来事と必然の出来事と、意志して選択した出来事にぶつかりながら決定されてゆく。しかし、偶然の出来事と、意志によって選択できた出来事とは、いずれも大したものではない。なぜならば、偶発した出来事とは、客観的なものから押しつけられた恣意の別名に過ぎないし、意志して選択した出来事は、主観的なものによって押しつけた恣意の別名にすぎないからだ。真に弁証法的な〈契機〉は、このいずれからもやってくるはずはなく、ただそうするよりほかすべがなかったという不可避的なものからしかやってこない。」
 
 
 
 
自然は、必然で不可避の「契機」という人の運命の陥穽を設えている。
 
神は、必然で不可避の「契機」という人の運命の陥穽を設えている。
 
近代は、近代みずから、必然で不可避の「契機」という人の運命の陥穽をいたるところに設えている。
 
近代では 、人は、その近代が招く不安に苛まれて、その近代みずからがいたるところに設えた、必然で不可避の「契機」という人の運命の陥穽に陥る。
 

 

””

「権力は、雑多な性的変種を生産し固定する。近代社会が倒錯しているのは、そのピューリタニズムにもかかわらずというのでもなく、またその偽善の反動によってでもない。それは現実に、かつ直接的に倒錯している。」

「中世以来、西洋世界においては、権力の行使は常に法律的権利において表現されていた。」が、近代社会は「法律的権利によってではなく技術によって、法によってではなく標準化によって、刑罰によってではなく統制によって作動し、国家とその機関を越えてしまうレベルと形態において行使されるような権力の新しい仕組み」である。

近代「資本主義が保証されてきたのは、ただ、生産機関へと身体を管理された形で組み込むという代価を払ってのみ、そして人口現象を経済的プロセスにはめ込むという代償によってのみ」である。

””

(「性の歴史Ⅰ 知への意志」 ミシェル・フーコー著 渡辺守章訳 新潮社)

 

 

 

「近代は、現実に、かつ直接的に倒錯している」

 

近代の「理性」は、「人の生存と生殖」に関わる「自然本能」を直接的に理念化できない。

「人の生存と生殖」に関わる本来的な経済もまた理念化できない。

 

近代資本主義という共同幻想は、「利子」の公認によって推進された。

キリスト教はそれまで倫理に背くとして認めなかった「利子」を承認した。

近代の国家はその「利子」を法的にも認証したが、その本来の倫理からのがれることはできない。

近代資本主義は、その倫理の破綻回避として、近代の国家による経済介入を招来した。

 

近代の国家は、「理性」による経済運営のためとして、人の「雑多な性的変種を生産し固定して」分析し、その分析にもとづいて「生産機関へ個々の人間の身体を管理して組み込み、個々の人間の生殖と死亡を人口統計してそれらを経済的プロセスにはめ込んできた。」

 

近代資本主義は、つぎつぎに人の欲望を掻き立てながらその欲望に見合う物やサービスを商品化してそれらを購入消費させなければならない。

 

近代資本主義は、物やサービスとして、すでに水も空気、さらには宇宙空間にまで手を伸ばし、さらには物やサービスを超えて貨幣そのものをも、およそこの世のすべてを商品化し、国家はそれを野放図に法的認証するまでに至っている。

 

 

人はもはや、近代資本主義と国家によって、その生産・交換・消費の一連の経済的プロセスにすっぽりと嵌め込まれて、他にその居場所を見いだすことも、その不安を癒す場所を見いだすことも困難な状況に押し込まれている。

 

人がそれらの「共同幻想」の軛からのがれて「個人幻想」「対幻想」に寄る辺を求める場所もその不安を癒す場所すらも、近代資本主義と国家の監視、管理のもとにある。

 

 

近代は、これら共同幻想の限界と矛盾の焦慮から、実証的諸科学によってその限界と矛盾からの解放と打破を試みている。

しかし、その実証的諸科学は、「理性」による論理が「どこからでも客観的に始めることができるし、前進することも後退することもともに可能である円環」のものであるという哲学的徹底ということが一切なしに、ただその「理性」の盲信によって推進されているものである。

これら実証的諸科学の行く先は、その煩わしい限界と矛盾を生みだしている人とこの人の世の末法であり、近代そのものの終焉に至るものである。

 

 

 
 
近代は、とうに「理性」の虚妄と限界を悟りつつある。
 
近代は、「理性」の虚妄と限界によって幾度もの戦争を繰り返し、およそ想像すらできないほどの無数の人々を殲滅し殺害してきた。
 
それでもなお近代は、その寄ってたつべき「理性」による、「反省」も「弁証」もしない。
それでもなお近代は、その「理性」の虚構と限界によって、「反省」することも「弁証」することもできない。
 
 
 
 
 
近代は、すでに、近代みずからが設えた、必然で不可避の「契機」という人の運命のいくつもの陥穽に、近代みずからあげて、あまねく深く陥落している。
 
 
 
 

ジャズ⑩

 

 

・・・

・・・

・・・

 

あの日はたしか、「はじめての宇宙中継」とかって聞いてて、朝からもう、そわそわワクワクだった。

ザーザー、ザラザラの残念なテレビだったけど、あの遠いアメリカ、そのアメリカのたったいまの様子が生で見られる、って、それはそれはなかなかの興奮だった。

息を呑みながら画面に見入ってた。

 

そしたら、なんと、いきなりだった。

 

ケネディー大統領が撃たれました!」 

「大変なことが起こりました!」

ケネディー大統領が撃たれました!」

 

ってもう、絶叫、絶叫だった。

 

 

これは大きかった、

大きすぎるほど大きかった、

 

テレビを見ていたこっちにも・・・

 

 

 

     

あの敗戦の後だ、

田舎の小さな街はしずかに悄然としていた。

 

その街を歩いていて、それになんども出くわした、

街角で片足の白装束の人が松葉杖をつきアルミ缶に恵み銭が入れられるのを待ちながらじっと俯き立ち尽している姿に、なんども出くわした。

 

たまにアルミ缶に銭を投げ入れる人があっても、ほとんどの人たちは見て見ぬ振りでそそくさ通りすぎていた。

 

そのうち街が活気づきだすと、いつのまにか片足の白装束の姿は街角から消えていた。

 

 

 

「敗戦」は終わっていた。

でも「戦い」は続いているんじゃないか、

と思った、

そう思えた。

 

 

 

「敗戦」の戦場で片足を失った白装束の人は、武器じゃなく松葉杖をついて、戦闘じゃなく恵み銭が投げ入れられるのを待ちながらじっと俯き立ち尽くすことで、まだ戦っているんじゃないか、

と思った。

そう思えた。

 

「敗戦」を生き延びた街の人たちは、勝戦への後方支援や祈りじゃなく、片足を失った白装束の人に投げ銭したり見て見ぬふりをしながら、失われた日常生活を少しでも取り戻そうと、まだ戦っているんじゃないか、

と思った。

そう思えた。

 

 

この皆が、誰と何と戦っているのかもわからない、誰が何に対して勝利するかもわからない、ただ押し黙ったままの、この「戦い」は、とても暗くて惨めでどこにも救いようのない不条理だ、と感じた。 

 

そう感じて、

人や人の社会に対してとても怖気づいてしまった。

 

 

片足の白装束の姿が街角から消えてその「戦い」は見えなくなった。

それでもその「戦い」が終わったとは思えなかった。

 

街が活気づいて街の人々の表情が明るくなればなるほど、あの暗くて惨めでどこにも救いようのない不条理な「戦い」は人々の心の奥へ奥へと押し隠されていくように感じた。

 

そう感じて、

人や人の社会に対してますます怖気づいてしまった。

 

 

 

生まれついての小心とか弱気はしょうがない。

それなのに、そのうえ、あの暗くて惨めでどこにも救いようのない不条理な「戦い」なんか見てしまったら、どうしようもない、

人や人の社会は怖い、外にでるのは怖い、

 

そう感じて、

すっかりの引き篭もりとなった。

 

 

まあいくらかこじつけで大げさだったとしても、たいがいにそんな気分となった。

 

どこにも居どころなんかない、ただ時化たグズグズの気分となっってしまった。

 

 

 

パティ・ページの「Tennessee  Walz」は、いっときでもそんな気分を救ってくれた。

どこにも居どころなんかなしのこっちに、ここだよ、ここに来ればいいよ、ここが「ふるさと」だよって、遥か遠くテネシーへと誘ってくれた。

 

 

エルビス・プレスリーの「It’s  Now Or Never」は、いっときでもそんな気分を救ってくれた。

ただ時化たグズグズのこっちに、ここだよ、ここに来ればいいよ、ここに来れば「そんな気分なんか思いっきり晴れるよ」って、遥か遠く紺碧の地中海へと誘ってくれた。

 

 

 

それでも、相変わらずの引き篭もりだった。

 

 

 

 

そんなとき、あのアメリカに、颯爽とあの「ケネディー」が現れた。

 

強く冷え込む1月のワシントン、

聖書に左手をおいて宣誓する「ケネディー」、

あの John Fitzgerald "Jack" Kennedy  は、自信に満ち理知に溢れ優美に包まれていた。

 

 

そしておおきくひろく世界に向けて呼びかけた。

 

ー 我が同胞アメリカ国民よ、国が諸君のために何が出来るかを問うのではなく、諸君が国のために何が出来るかを問うてほしい。・・・世界の友人たちよ。アメリカが諸君のために何を為すかを問うのではなく、人類の自由のためにともに何が出来るかを問うてほしい。・・・最後に、アメリカ国民、そして世界の市民よ、私達が諸君に求めることと同じだけの高い水準の強さと犠牲を私達に求めて欲しい。

 

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ああ、これで外へ出ていける。

 

ケネディーは世界へ呼びかけている、

ケネディーは引き篭もっているこっちにまで呼びかけている、

世界のすべての人に一緒に考えて一緒に行動しようって呼びかけている、

 

 

 

ああ、これで外へ出ていける、

ああ、これで引き篭もりは終わりだ、

これで、普通に生きていける、

 

ほんとうにそう思った、そう思えた。

 

 

そして、これがその最初で最後だった。

 

 

 

ケネディーは「最後に、アメリカ国民、そして世界の市民よ、私達が諸君に求めることと同じだけの高い水準の強さと犠牲を私達に求めて欲しい。」

って願い、呼びかけた。

 

でも、アメリカ国民も世界の市民も、その高い水準の強さと犠牲を示すことはできなかったし、しなかった。

 

 

 

そしてあの「はじめての宇宙中継」の日、

暗殺者の銃弾はケネディーの頭部を撃ち抜いた。

 

あの自信に満ち理知に溢れ優美に包まれていたケネディーがそこで果てた。

あのケネディーの願いも呼びかけもそこで果てた。

 

 

 

これは大きかった、

大きすぎるほど大きかった、

こっちにも、

 

また、引き篭もりだ、

また、外へでる気力も失せた、

また、引き篭もりにあと戻りだった。

 

 

 

 

 

それからもうずっとずっと後だった。

 

 

 

「ジャズ」がある、

「ジャズ」だったら、なんとか外にでることができるかもしれない、

 

「ジャズ」のピアノ弾きでこの世を渡り歩いていけるかもしれない、

「ジャズ」だったら、なんとか生きていけるかもしれない、

 

 

なんて思いはじめたのは。

 

 

 ・・・

 ・・・

 ・・・

 

 

 

 

さあ、ルート55号に乗った、

 

さあ、いよいよニューオリンズだ。

 

 

 

「ジャズ」をやりはじめてからも、ずっと迷っていた。

 

ほんとうに「ジャズ」か、

ほんとうに「ジャズ」で生きていけるか、

ほんとうに「ジャズ」でいいのか、

 

 

「ジャズ」ならニューオリンズか、

ニューオリンズに行けば、なにか見つかる、なにかがわかる、

ニューオリンズに行けば、迷いから解放される、

ニューオリンズに行けば、なにかしれないけど決着はつく、

 

そう思ってのニューオリンズだ。

 

 

さて、そろそろその決着とやらをつけに行くか・・・

 

 

 

 

「戦争」


 

 

””

 戦争が原則として違法化されている今日、戦争に関する国際法戦時国際法)においては、従事する国家の政府は、一定の権利義務が定められている。具体的には

  • 敵戦力の破壊および殺害
  • 中立国の船舶に対しての国防上の要請から、もしくは戦時禁制品の取り締まり等のための海上封鎖、臨検や拿捕
  • 捕虜の抑留
  • 占領地では軍政を敷いて、敵国民やその財産についての一定の強制措置

などである。

これらの権利のうち最も重要なのは敵国の艦隊や港の封鎖を政府が宣言する権利である。叛乱者や革命家は交戦団体となるまでこの権利を保有しない。これら非政府・反政府勢力による紛争をめぐる情勢が叛乱から内乱に移ったことが明らかとなった場合のみ交戦権が認められる。しかし、交戦権を付与する明確な規則については今日、存在していない。

 

交戦権を「戦争の主体となる立場」と規定する場合、交戦権を持つのは、国および交戦団体となる。戦争は、一般に国と国との間で行われるものであるため、戦争の主体となりうる集団として、まず国を挙げることができる。ほかに、政府の転覆を目指す集団が転覆対象国家に対して戦争を起こす場合、あるいは国の一部の分離独立を目指す集団が旧帰属国家に対して戦争を起こし、その集団が「交戦団体」と認められた場合には、国に準じて交戦権を付与されるとされる(→国家の承認)。

ただし現在の国際法上の慣行では、戦争を「戦時国際法が適用される状態」と定義するため、戦争の当事者の資格についてはあまり考慮されない。国家や交戦団体による戦争のほか、同一国内での内戦・占領軍に対して行われる抗議的軍事行動(レジスタンス運動)などにも戦時国際法が適用されると解されている。そのような点からも、交戦権を「戦争の主体となる立場」と規定することには、あまり意味がなくなりつつある。

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(「交戦権」の抜粋 出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia))

 

 

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近代の戦争は、近代の虚構と限界がもたらすものである。

近代の戦争は、近代の虚構と限界を隠蔽するものである。

近代の戦争は、近代の維持存続の倨傲と虚妄である。

 

 

 

近代は、人の「理性」の存在とその「理性」による治世の正統性を信仰する。

 

 

この世の多くの人は、古来、自然と神を崇拝し怖れながらそれらに従容してきた。

この世の多くの人は、古来、祭祀と信仰によって自然と神への崇拝と怖れに従容してきた。

 

ある人たちは、その自然と神への従容を肯んじなかった。

ある人たちは、人の精神のうちに、人の主体を確立しうる「理性」があると措定した。

ある人たちは、この「理性」によって自然と神への従容から遁れでて、人が主体となってこの世を治めることができると措定した。

 

しかし「理性」の存在を認めるのがその「理性」であれば、その「理性」の存在はつまるところ信仰である。

  

近代は、この「理性」の信仰者たちによってこの世に流布された信仰である。

 

「理性」が信仰であれば、自然と神への信仰と同様、その信仰はいつも揺らぎと喪失の怖れに晒されてある。

 

近代は、その維持存続のため、揺らぎと喪失の怖れのある「理性」への信仰をよりふかめて、それをこの人の世になおひろく流布して浸透させなければならない運命にある。

 

近代は、「理性」が、ある人たちだけでなくこの世のすべての人の精神のうちに存在するものとして「理性」への信仰をふかめさせ、それをこの世にひろく流布させ浸透させるべくはかった。

 

近代は、「理性」が信仰であり、その信仰はいつも揺らぎと喪失の怖れに晒されてあることを感知している。

近代は、「理性」が信仰であり、その信仰はいつも揺らぎと喪失の怖れに晒されてあることによって、人の世の秩序が乱れその崩壊に至る怖れを感知している。

 

近代は、「理性」への信仰だけによって治世することはできないことを承知している。

近代は、人の世を治めるため、近代のほか同様、人の世の規制とその規制を実効させる実力を要することを承知している。

 

近代は、「理性」への信仰のもとにあることから、人の世を治めるためのその規制と実力がなおその「理性」によるものであることを示して、その正統性を獲得しなければならない。

 

近代は、人には「理性」があるにもかかわらず、なおその「理性」に反する人の言動を規制するものであるからその根拠は「理性」にあるとし、それを「法」と表象して、その「法」による規制の正統性を信仰した。

 

近代は、その「法」を実効あらしめる実力装置を「国家」と表象して、その実力の行使の根拠もまた「理性」にあるとして、その「国家」による実力の正統性を信仰した。

 

 

この世のすべての人に「理性」があるのであれば、なおその「理性」に反する人の言動もまたこの世のすべての人においてありうるものであるから、それを規制する「法」もまたこの世のすべての人に適用される普遍のものであるはずである。

しかし、古来から「法」は時代と地域を異にして様々に存在しているところ、近代の「法」もまた種々様々にあるものである。

 

近代の「法」は、その「理性」の虚構と限界を示すものである。

 

この世のすべての人に「理性」があり、その「法」がこの世のすべての人に適用される普遍のものであれば、その「法」を実効あらしめる実力装置もまたそのすべての人を包括する国家にあるべきものである。

しかし、古来から「国家」は時代と地域を異にして様々に存在しているところ、近代の「国家」もまた種々様々にあるものである。

 

近代の「国家」はまた、その「理性」の虚構と限界を示すものである。

 

 

畢竟、近代の「法」と「国家」は、「理性」の存在とその理性による治世を正統性の信仰を維持存続させるために観念された、まさにその信仰の防御装置であり、それはまた「理性」の虚構と限界を示すものである。

 

近代は、「法」が破られ「国家」が崩壊すれば「理性」への信仰が失われて、近代そのものが消滅する運命にある。

 

近代は、「理性」の存在とその理性による治世を正統化するため、この世のすべての人に適用されるべき「法」の制定とこの世のすべての人を包括する「国家」の定立をはかってきたが、その「理性」の虚構と限界によって果たせない。

 

近代は、「理性」の存在とその理性による治世を正統化するため、すでに制定した「法」の遵守と定立した「国家」の維持存続をはかるしかない運命にある。

 

近代は、「理性」の存在とその理性による治世の正統化やすでに制定した「法」と定立した「国家」の維持存続が脅かされば、それらを守るため、武力ほか各種の「戦争」を行うしかない運命にある。

 

近代は、そのよすがとする「理性」と「戦争」が相矛盾するものであり、「戦争」がその勝敗にかかわらず「理性」の喪失と敗北であり、それが近代の虚構と限界を意味するものであることもまた承知している。

 

近代は、それゆえに、戦争の戦端を開かざるを得ない場合において、そこに意味される近代の虚構と限界を隠蔽するため、なおそこにおいても「理性」が残っていると姑息弁明するための「戦時国際法」なるものを規定している。

 

その「敵戦力の破壊および『殺害』」は、この世のすべての人に「理性」がありこの世のすべての人が「主体」であるとする近代が、人を客体としてその殲滅殺害を「権利」と表象するものであり、それは「理性」の否定にとどまらない、まさにそれは近代の「狂気」のさまを示すものであり、近代みずからの自己否定である。

 

近代の戦争は、その「戦時国際法」なるものによって、近代の虚構と限界を隠蔽して戦端を開き、その僥倖勝利によって、なお近代の維持存続を倨傲する虚妄である。

 

 

 

 

近代の戦争は、近代の虚構と限界がもたらすものである。

近代の戦争は、近代の虚構と限界の隠蔽である。

近代の戦争は、近代の維持存続の倨傲と虚妄である。

 

 

ジャズ⑨


 

女は壁側に向って微かな寝息をたてていた。

 

寝入るとき胸もとまで引っ張り上げたシーツは太ももあたりにしどけなくまとわっていた。

 

ぱっさりとした栗色の髪が耳たぶから頬へ頬から口元へ流れ落ちている。

やわらかなうぶ毛がうなじから肩へ肩から腰へ豊かに波打つラインを煌めかせている。

 

 

いまここにそのまんま生きている。

 

 

 

 

蛇口の音には気をつけた、

起こさないよう、

ゆっくりちいさく捻った、

 

でも安モーテルの安作りだ、

しょうがない。

 

一杯飲み干してベッドに戻ろうとすると

 

ー  Good,

      Evening  ?

 

まだ眠たげな瞼の奥の瞳は真直ぐに澄みきって、

ほんのりした笑みが浮かんでいた。

 

 

 

またベッドへ戻ると、

女はクスりと笑って足元のシーツを引っ張りあげて、

素っ裸の二人はもう頭まですっぽりと包まれた。

 

二人して抱き合い、絡み合って、あちこちと身体を弄り合った。

 

 

 

とっくに人の心のあれこれにはうんざりしていた。

とっくに人の言葉や文字のあれこれにはうんざりしていた。

 

過ぎたことがどうだとか、

これからがどうだとか、

 

もううんざりだった。

 

 

ただ「いまここでそのまんま生きる」だけだ。

  

 

ただ二人抱き合い、絡み合う、

 

いまここでそのまんま生きている。

 

 

 

もういちど、あの懐かしい「テネシー」に深く入っていった。

 

 f:id:tetutarou1:20190520135227j:plain

 

 

 

 

 

ふと目覚めると、

 

濡れた髪をタオルでかきあげしていて、

濡れた身体にはバスタオルが造作なさげに巻かれていた。

 

 

 

ー ユー ワナ ゴウ サムウエア ? 

 

しばらく間があって、

ー  No.    

 

ー  ユー ゴーバック ホーム ? 

ー  No.

 

ー  I'm always staying in Tennessee.

 

そう聞こえた、

「Tennessee」って、そう聞こえた。

 

 

もう尋ねることはなかった。

 

 

 

 

素肌にふわりとワイシャツをはおると、

 

  ””

 I was dancing

 with my daring

 ・・・

 

 ちいさくいたずらっぽくハミングしながら、 

 

ー Give me a hug. 

 

  

柔らかにしっかり抱きしめた。

 

わずかに眼をあげるその頬に手を添えようとすると、

ちょいと小首傾げをして、あたたかな頬が手のひらにぽたと落ちた。

傾げられた額にかるく口をつけた。

 

 

 

 

 

ー Drop me here.

 

ダウンタウンのすこし手前の交差点近くだった。

 

「グッバイ」ってやつはナシってきめていた、

 

ー オーライ

ー ユー ジャスト ビー ウエル

 「ごきげんよう」だったら「Be well」かなってとこだった。

 

 

女はドアを開けて、

すこし間をおいて振り返り、

澄んだ瞳をふっと和ませて、

 

ー Bye for now.

 

そのまま建物の角に向かって曲がって消えた。

 

 

 

なまえは聞かなかった。

 

「いまここでそのまんま生きている」から、

なまえは聞かなかった。

 

 

こっちの胸にいつもずっと「いまここでそのまんま生きている」

 

だから、なまえは聞かなかった。

 

 

 

 

車をターンさせてニューオリンズに向かうことにした。

  

 

 

 

 

 

「科学」


 

””

ヘーゲルが、エンチクロぺディーの第三版の終わりで、理念の各形態がある場合には全推論の両項にもなりまた他の場合にはその中間にもならねばならないことを証明したことによって永久に終わりを告げたのではあるが。つまり、このことを理解すれば、どこからでも客観的に始めることができるし、前進することも後退することもともに可能である。円環はあくまでも同じものとしてある。これが弁証法的な見方の本来の秘密である。

・・・
・・・
大学においては思弁を本腰にやらなければならない、もしそうでないなら、誠に寒心に堪えない結果が生ずるであろう。というのは大学においてもまた哲学の講義は衰微してしまって、そのために哲学的徹底ということが一切なしに、ただ実証的諸科学が教授されることになり、するとこの実証的諸科学の粗雑さをよいことにして、偏狭な専門家や神学的な文字の奴隷どもが学問の黄金時代を築くことになるのだろうからである。
 
””
(「哲学入門」ー「編者の序言」 ケーニヒスベルク 一八四〇年四月四日  カール・ローゼンクランツ著  岩波文庫 岩波書店刊)
 
 
””
僕が七〇年代の問題を何によって象徴するかというと、簡単なことで、サッポロが「ナンバーワン」というペットボトルに天然水を詰めて売りに出したのが七〇年代の初頭だったんです。僕は、そういう些細なことをものすごく大きな象徴として捉えたのだと思います。
なぜかというと、マルクスなんかの古典経済学の非常に大きな原則というのは、天然水と空気は使用価値はあるけど交換価値はゼロだということです。そんなのは売れもしないし、どうにもならない。・・・せいぜいこれは特別に飲みたいと思う人とお酒を飲みたい人だけに留まるだろうというのが僕の予測だったんです。
ところが冗談ではなくて、今や大変なことになった。一つには日本の自然水が生活環境に汚染されたということも少しはあったのかもしれないけど、爆発的に普遍化したのは、僕は事件だと思ったんです。これで古典経済学はちょっと修正を要するぜ、というのが僕の印象なのです。・・・それから空気清浄機というのも出来たけど、空気も汚染されてきて、これもただでなくなるというふうに思えてきた。これは古典経済学の大転換で、修正を要するということの象徴です。
・・・
・・・
産業の一循環の速さというのは、人間心理の速度を規定する。それとひどく違うところにいるところにいる住民は巨悪をやったりすることになるから、そういうのを調べたらどうかと言ったんです。心理の速度がなぜ産業の速度と食い違うかということです。そうすると、枠が外れて巨悪が起こったり、東洋で言えば肉親、家族、親族を主体として犯罪が起きたり、子どもが親友同士でいじめあったり、年寄りで言えば孤立感が深まってくるということです。
 
””
(「貧困と思想」ー 二「肯定と疎外」 吉本隆明著 青土社刊)
 
 
 
 
 
 
人間は「自然」への崇拝と怖れから「自然」を疎外した。
人間は「自然」への疎外によって「自然」の包摂から逸脱して「自然」から疎外された。
 
人間は「自然」を超越する「神」を措定して「自然」の包摂への回帰と「自然」の疎外からの克服を試みたが果たせない。
 
人間はみずからには「自我」があり「思考」できるとして「自然」のなかでの「主体性」を措定した。
人間はその「思考」による「自然」の解析と統合で「自然」の包摂への回帰と「自然」の疎外からの克服を果たせるものと信仰した。
 
 
 
 
””
 「有(Sein)は単純な内容のない直接性である。その対立は純粋無(reines Nichta)であり、両者の統一は成(Werden)である。無から有への移行は生起(Entstehen)であり、その逆は消滅(Vergehen)である。」 
 
””
(「哲学入門」ヘーゲル著 武市健人訳 岩波文庫 岩波書店刊)
 f:id:tetutarou1:20190429114452j:plain
 
 
 
 
「自然」は「おのずからある」ものであり、「単純な内容のない直接性である」ところの「有」である。
 
「自然」に「無」はない。
 
 
「思考」は「自然」にはない「無」の観念を導入して、身体が受感する「目の前にある状況」を言葉や文字や論理として表象して「架空」するものであり、その「思考」によって創造される物も観念もまた「架空」のものである。
 
 
人間の身体が受感する「目の前にある状況」は「自然」ではない。
人間にとっての「目の前にある状況」は「有限性」と「偶然性」に依存する身体の「感性」によって把握される「架空」である。
 
人間の言葉や文字や論理は、精神による「自然」の分断と断片の表象という「架空」である。
 
「思考」は「架空」であり、その「思考」によって創造される「物」「観念」もまた「架空」である。
 
 
 
「思考」は人間が「自然」にはない「無」の観念を導入して「架空」するものであり、「どこからでも客観的に始めることができるし、前進することも後退することもともに可能である。円環はあくまでも同じものとしてある。」ものであり、「自然」にたいして「閉じられた」ものである。
 
 
人間は「思考」によって「自然」を解析し統合することはできない。
人間は「思考」によって「自然」の包摂への回帰も「自然」の疎外からの克服も果たせない。
 
 
 
近代は、人間の「思考」についての「哲学的徹底ということが一切なし」に、「ただ実証的諸科学が教授されることになり、するとこの実証的諸科学の粗雑さをよいことにして、偏狭な専門家や神学的な文字の奴隷どもが築いてきた学問の黄金時代」である。
 
 
 
 
人間は、人間が自然をみずからのものと僭宣して居座る「目の前にある状況」を「占有」と表象して自然と人間を疎外した。
人間は、人間が自然から創造した物をみずからものと僭宣して力を振るう「目の前にある状況」を「所有」と表象して自然と人間を疎外した。
人間は、人間が物を交換して差分を得る「目の前にある状況」を「経済」と表象して自然と人間を疎外した。
 
 
 
 
「価値ある物」は自然にはない。
「価値ある物」は「自然」を疎外する「架空」の「占有」「所有」「経済」などの表象観念にもとづいて人間が創造する「架空」の観念であり、なお自然と人間の心身の疎外を深めるものである。
 
「欲望」は「自然」にはない。
「欲望」は人間が自然と人間の心身を疎外して「空」となる精神の人間が創造する「架空」の「価値ある物」への渇望の表象でありそれもまた「架空」である。
 
 
 
これら「架空」の表象によって体系化される「実証的諸科学」の経済学も「架空」である。
 
「実証」もまた人間が「自然」にはない「無」の観念を導入して「架空」するものであり、「どこからでも客観的に始めることができるし、前進することも後退することもともに可能である。円環はあくまでも同じものとしてある。」ものであり、「自然」にたいして「閉じられた」ものである。
 
 
「経済」は自然の疎外によって「架空」される「欲望」を満たすために「架空」の「価値ある物」を創造してその売却により差分を得てまたその得た差分によって「架空」の「欲望」を満たすため「架空」の「価値ある物」を購入する円環であり、「自然」にたいして「閉じられた」ものである。
 
 
 
人間は「実証的諸科学」によって「自然」を解析し統合することはできない。
人間は「実証的諸科学」によって「自然」への包摂の回帰も「自然」の疎外からの克服も果たせない。
 
 
 
近代は、人間の「思考」についての「哲学的徹底ということが一切なし」に、「ただ実証的諸科学が教授されることになり、するとこの実証的諸科学の粗雑さをよいことにして、偏狭な専門家や神学的な文字の奴隷どもが築いてきた学問の黄金時代」であるが、もうその時代の終焉を迎えつつある。
 
 
「実証的諸科学」は人間の「自然」としての身体と精神を根底から疎外する。
 
「実証的諸科学」は人間の「自然」としての身体と精神の安定を損なわせなお「実証的諸科学」が「架空」する「基準」「規定」からの逸脱を宣告して疎外し殲滅するものである。
 
「実証的諸科学」の最後の討ち手である「宇宙工学」による空間侵奪と「AI工学」による時間侵奪は人間の「自然」としての身体と精神そのものを殲滅しその消滅をもたらすものである。
 
 
 
 
近代はもうその終焉を迎えつつある。
 
 
 
 

ジャズ⑧

 

 

朝、ニューオリンズに発つ前にもう一箇所、

「サン・スタジオ」だった。

 

ここからもうあのエルビスだ。

 

受付で「ジャンルは?」と聞かれて「なんでも」、「似てる歌手は?」と聞かれて「他の誰とも似ていない」って答えたっていう、

 

エルビスは、

もうここからだった・・・。

 

 

 

 

ニューオリンズにナビをセットするとき「 Tennessee」の文字が目に入った。

 

メンフィスはテネシーだ、

ルート55に入るともうテネシーはおわりか、

 

 

そうはいかない。

 

 

ナッシュビルにセットし直して、深く「テネシー」に入っていくことにした。

 

 

 

 

ずっと昔、

 

ジャズじゃなくて、

ニューオリンズでもなかった。

エルビスじゃなくて、

メンフィスでもなかった。

 

 

昔はずっと「テネシー」だった。

 

 

””

I  was dancing with my daring to the Tennessee Waltz

When an old friend I happen to see

I introduced her to my loved one

And while they were dancing

My friend stole my sweetheat from me

 

I remember the night and the Tennessee Waltz

Now I know just how much I have lost

Yes, I lost my  little daring the night they were playing

The beautiful Tennessee Waltz

 "" 

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パティ・ページの哀しげに絡みつく歌声は、あの遠く遥かな「テネシー」へ誘ってくれた。

 

 

聳えたつ山々の稜線に夕日が沈んでいく、

小高い丘のふもとの小さな村に夕暮れが迫る、

丘の中腹の古びた集会所に一人、二人と、

それぞれおしゃれを凝らして集まってくる、

収穫したぶどうを醸したワインが振舞われる、

荒く手作りされたヴァイオリンが奏でられる、

男たちが遠慮がちに壁の花を誘いでていく、

陽焼けかワインか、きらきら赤く輝く頬と頬がかすかに触れ合う。 

 

 

 

 あのときから「テネシー」は遠く遥かな「ふるさと」となった。

 

 

 



 ルート40に入る少し手前の道路脇に「POOL」の看板だった。

「ビリヤード」はアメリカでは「プール」だ、

ひさしぶりだ、

突いてみるか。

 

 

階段を上がると台が8つほどで、客は奥の窓際右隅にひと組だった。

 

窓際左隅の自販機でコーラを取り出して長椅子でゴクッとやった。

 

右隅の台で男と女二人ずつキューを握ってナインボールをやっていた。 

男も女もグズグズのパンツ、シャツにタトゥー、ビーズやらだらけだ。

 

もう一人、 女が台に背を向けて窓の景色をみていた。

 

まるで化粧っけなし

ジーンズはストレート

洗いざらした白のワイシャツ

 

いまここにそのまんま生きてる。

 

 

女が自販機のほうにきた、

 

ー You bet me? 

 

女はちょっと頬を膨らませて小さく中指を立てた。

 

 

知ってる英語では「bet」が気に入っていた、

「trust」は嘘っぽいから「bet」がいい、

ただ使い方は適当、

「ちょっとどう?」って言ったつもりだった、

「bed」って聞こえたかな、

 

まあどっちにしても中指だから、

 

 

階段を降りて車に乗り込んだ、

さてルート40とサイドミラーを確認すると中指の女が近ずいてきた。

 

助手席に座った女は、

 

まるで化粧っけなし

ジーンズはストレート

洗いざらした白のワイシャツ

 

いまここにそのまんま生きてる。

 

 

だから何も言わずに何も聞かないままスタートした。

 

 

すぐ近くにあったモーテルにチェックインした。

 

椅子に座って少し見合ったあと、

 

立ち上がって

 

””

I  was dancing with my daring 

to the Tennessee Waltz

・・・

””

 

なんて誘ってみた。

 

 

女はふっと遠くに眼をやったあとゆっくりと立ち上がって身を寄せてきた。

 

抱き寄せてステップをはじめるとそれなりにあわせてくれた。

 

化粧っけのない艶やかな頬とうなじから「テネシー」の懐かしい香りが漂った。

 

 

女は手で身体を押し離すとそのままワイシャツを脱いだ、

たっぷりとした乳房があらわれた、

ジーンズ、パンティを下ろして、また身を寄せてきた。

 

そのままベッドに向かってこっちも全部脱ぎ捨てた。

 

 

いまここにそのまんま生きてる。

 

 

 

いまここにそのまんま生きてるあの懐かしい「テネシー」に深く入っていった。

 

 

 

 

「喜劇」

 
“ “ 
ヘーゲルはどこかで、すべての偉大な世界史的な事実と世界史的人物はいわば二度現れる、と述べている。彼はこう付け加えるのを忘れた。一度目は偉大な悲劇として、二度目はみじめな笑劇として、と。
 
・・・
 
 人間は自分自身の歴史を創るが、しかし、自発的に、自分が選んだ状況の下で歴史を創るのではなく、すぐ目の前にある、与えられた過去から受け渡された状況の下でそうする。すべての死せる世代の伝統が悪魔のように、生きている者の思考にのしかかっている。そして、生きている者たちは、自分自身と事態を根本的に変革し、いままでになかったものを創造する仕事に携わっているように見えるちょうどそのときでさえ、まさにそのような革命的危機の時期に、不安そうに過去の亡霊を呼び出して自分たちの役に立てようとし、その名前、鬨の声、衣装を借用して、これらの由緒ある衣装に身を包み、借り物の言葉で、新しい世界史の場面を演じようとしているのである。」  
” ”
 
 
” ” 
「有(Sein)は単純な内容のない直接性である。その対立は純粋無(reines Nichta)であり、両者の統一は成(Werden)である。無から有への移行は生起(Entstehen)であり、その逆は消滅(Vergehen)である。」 
” ”
(「哲学入門」ヘーゲル著 武市健人訳 岩波文庫 岩波書店刊)
 
 

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自然は「おのずからある」ものであり「単純な内容のない直接性である」ところの「有」である。
 
自然は万物を包摂するものであり、人間もその万物の一つとして自然に包摂されていた。
 
 
人間は自然への崇拝と怖れからその精神により自然を疎外した。
 
 
人間の身体は自律の生理で保たれる自然としての「有」である。
人間はその身体への崇拝と怖れからその精神によりみずからの身体も疎外した。
 
 
人間はその精神に「自我」がありその「自我」は「思考」するとして自然に対する精神の主体性を崇拝した。
 
「自我」は自然を疎外した人間が自然への反措定として「架空」するものであって「有」ではない。
「思考」は「有」の反措定として「無」を観念して「架空」するものであって「有」ではない。
 
 
人間は「架空」の「自我」や「思考」によって自然への崇拝と怖れからのがれることはできない。
人間は「自我」を強固にすればするほど「思考」を重ねたりすればするほどその「架空」を怖れるようになり、その疎外を深めた。
 
人間は「自我」や「思考」への崇拝とその「架空」への怖れによってその精神を精神によって疎外した。
 
人間の精神によって疎外された精神は「空」であり純粋「無」である。
 
人間はみずからの身体と精神を疎外することで自然から遠く遊離した疎外者となって自然の包摂への回帰のすべを失った。
 
 
 
「思考」は「無」の観念を導入して、身体が受感する「目の前にある状況」を言葉や文字や論理として表象して「架空」するものであり、その「思考」によって創造される物も観念もまた「架空」のものである。
 
 
人間は、人間が自然をみずからのものと僭宣して居座る「目の前にある状況」を「占有」と表象して自然と人間を疎外した。
人間は、人間が自然から創造した物をみずからものと僭宣して力を振るう「目の前にある状況」を「所有」と表象して自然と人間を疎外した。
人間は、人間が物を交換して差分を得る「目の前にある状況」を「経済」と表象して自然と人間を疎外した。
人間は、人間が人間を支配する「目の前にある状況」を「権利と義務」と表象して自然と人間を疎外した。
人間は、人間が自然に立ち入り人間が身体に侵入し精神に立ち入って検見する「目の前にある状況」を「科学」と表象して自然と人間を疎外した。
人間は、自然を超越する神を措定しながらその神を知ろうとする「目の前にある状況」を「宗教」と表象して自然と人間を疎外した。
人間は、人間が空間を線引きしてその空間をみずからのものと僭宣して居座る「目の前にある状況」を「国家」と表象して自然と人間を疎外した。
人間は、人間が人間の出自を線引きして区別する「目の前にある状況」を「民族」と表象して自然と人間を疎外した。
 
 
人間は「目の前にある状況」を表象によって「架空」するものであり、人間にとっての「目の前にある状況」はその「架空」された「状況」であり、それが人間にとっての「現実」という、「生きている者の思考」にとっての「死せる世代の伝統という悪魔」である。
 
 
人間はその「現実」の変革を「思考」するが、その「思考」が同じく表象による「架空」であれば、その「革命」もまた「架空」された「状況」であり、それはまた人間にとっての「現実」という、「次の世代に生きる者の思考」に「死せる世代の伝統という悪魔」としてのしかかっていくものである。
 
 
近代は人間が「自我」と「思考」で演じる劇の最後の舞台であり、人の歴史の最終章である。
 
近代の舞台で演じられる劇は一つであり、それは悲劇でもあれば喜劇でもある一つの悲喜劇である。
 
 
近代の舞台では人間は振り付けることはできない。
人間はその舞台で一つの悲喜劇を演じるだけである。
 
近代の観客席には自然だけが残っている。
 
 
 
 
 
” ”
 
「死ねば死に切り、自然は水際立っている」
 
” ”
(「夏書十題」から 高村光太郎著)