「受容」

" 人類の共同性がある段階で<母系>制の社会をへたことは、たくさんの古代史の学者にほぼはっきりと認められている。そしてあるばあいこの<母系>制は、たんに<家族>の体系だけでなく<母権>制として共同社会的に存在したことも疑いないとされる。”

” <母系>制はただなんらかの理由で、部落内の男・女の<対なる幻想>が共同幻想と同致したときにだけ成立するといえるだけである。”

” 家族の<対なる幻想>が部落の<共同幻想>に同致するためには<対なる幻想>の意識が<空間>的に拡大しなけければならない”

ヘーゲルが鋭く洞察しているように家族の<対なる幻想>のうち<空間>的な拡大に耐えられるのは兄弟と姉妹との関係だけである”

 

” それでアマテラスがこれをきき驚いて申すには、「わたしの兄弟のミコトが天に上ってくる理由は、きっと良い心からではあるまい。わたしの国を奪おうとしてやってくるにちがいない」というと、髪の毛を解いて、ミズラにまき、左右のミズラにもカツラにも、左右の手にも、みな勾玉のたくさんついた珠玉をまいて、背には矢が千本入る矢のを負い、胸には矢が五百本入るをつけ、臀には高い音を出す鞆を佩き、弓を振り立てて庭につっ佇ち、大地を蹴ちらしておたけびをあげて待ちかまえ、スサノオに「なんのために天に上ってきたのだ」と問うた。

 スサノウノミコトは答えていうには「わたしには邪心はありません。ただ父がわたしの哭いている理由をきかれたので、わたしは妣の国にゆきたいとおもって哭いているのですと申しますと、父がお前はこの国に住んではまかりならぬと追放されたのです。それだから妣の国へゆこうとおもう次第を知らせに上がってきたので、異心はありません」とのべた。”

吉本隆明著「改訂新版共同幻想論 母制論」 角川ソフィア文庫

 

 

姉アマテラスは生誕の祝祭と死の供儀を司る<母権>制共同国幻想を支配する。

弟スサノウは、姉アマテラスが支配する<母権>制共同国幻想の空間拡大と守護の命を拝し、姉アマテラスと妣が鎮座する<母権>家族から離たれ、その共同国幻想の域際に立つ。

その域外にさんざめく異界異族の共同国幻想は、姉アマテラスの支配する<母権>制共同国幻想をその崩壊を企らみさまざまに脅やかす。

その守護にあたる弟スサノウの心身は疲弊し、一人哭いて、姉アマテラスと妣が鎮座する<母権>家族への回帰を願う。

 

姉アマテラスと妣は<母権>制共同国幻想の空間拡大と守護のためその<母権>家族から離たった弟スサノウの回帰を受け入れることはできない。

姉アマテラスと妣は<母権>制共同国幻想の空間拡大と守護の命に背く弟スサノウをもはやその<母権>家族に受容することはない。

 

 

 

「私たちの政策に合致するか、さまざまな観点から絞り込みをしたい。全員を受け入れることは、さらさらありません。」(希望の党代表小池百合子

 

共同国幻想の政策、理念は言葉によって語られる。

生誕の祝祭と死の供儀は祈りと音楽に包まれる。

生誕の祝祭と死の供儀は言葉によって記述することはできない。

 

共同国幻想の政策、理念の言葉は抽象を余儀なくされてついには唯名に陥いる。

唯名に陥った共同国幻想の政策、理念の言葉は、沈黙によって形成される自己幻想、対幻想を遠く疎外する。

この遠く疎外された自己幻想、対幻想を慰謝し救済しうるのは祈りと音楽に包まれる生誕の祝祭と死の供儀である。

生誕の祝祭と死の供儀を司る<母権>制共同国幻想は、遠く疎外された自己幻想、対幻想の慰謝、救済幻想として、この世にいつも静かに沈潜してきた。

 

 

「母子の権利こそ、実は女権の究極であり、女性独自のものである」(高群逸枝『女性の歴史』講談社文庫版上、一九七二年)

「女権そしてその核心の母子の権利をないがしろにする男は居域から追われる。古く母権制につながる新しい母子の権利に基づく生活が、わが住居にやってきたのだ。七〇年代、男権の表れとしての家庭の解体が始まっていたが、一組の男女が暮らす居場所の新しい名前はなかった」(最首悟『大衆の玄像』青土社発行「現代思想」平成24年7月号)

 

 

男達が参画する共同国幻想の政策、理念の言葉はとうに唯名に陥り、その唯名の政策、理念の蕩尽によって、女権そしてその核心の母子の権利をないがしろにした。

その共同国幻想に参画した男達は、瞋恚の<女権>家族から、その居域から追放される。

その男達にはもやは居場所はない。

 

居場所をなくしたその男達はついには<女権>家族への回帰を願うしかない。

 

<母権>制共同国幻想の主宰者は、女権そしてその核心の母子の権利をないがしろにした男達の<女権>家族への回帰を受け入れることはできない。

<母権>制共同国幻想の主宰者は、女権そしてその核心の母子の権利をないがしろにした男達をもはやその<女権>家族に受容することはない。

 

 

 

「私たちの政策に合致するか、さまざまな観点から絞り込みをしたい。全員を受け入れることは、さらさらありません。」

 

 

 

 

「祖国」

 

””

This land is your land,

This land is my land,

From California to the New York Island,

From the redwood forest,

To the Gulf stream waters,

This land was made for you and me.

・・・

As I was walkin’
I saw a sign there
And that sign said no trespassin’
But on the other side
It didn’t say nothin!
Now that side was made for you and me!

In the squares of the city
In the shadow of the steeple
Near the relief office
I see my people
And some are grumblin’
And some are wonderin’
If this land’s still made for you and me.

・・・

「This Land Is Your Land」(わが祖国)

(Words and Music by Woody Guthrie)

”” 

 

あの頃、かの国のかの詩人は貧困と差別の大地放浪にあって、叙情を静かに抑えながらなお希望の「祖国」を叙景した。

叙情に絡みとられた「祖国」はその人の心に浮かぶだけの孤立の幻影となる。

叙情を抑えながら叙景される「祖国」は人々の共有の幻影となる。

 

 

「祖国」は人々がその「国家」の道義を信じてその「国家」のもとに個々の心身を糾合する姿として幻影される。 

「国家」は科学幻想、宗教幻想、法幻想、経済幻想、民族幻想によってその道義を揺さぶられ不義に陥る。

「祖国」はいまある「国家」の不義によって疲弊した人々が抱く懐かしくも儚く遠ざかっていく共同幻想として幻影される。

 

あの頃から時はめぐってかの国は「国家」の不義によって多くの人々が疲弊した。

 

 いまかの国の新指導者はその「国家」の道義を糺し疲弊した人々の懐かしくも儚く遠ざかっていく「祖国」を惹き戻すため勇躍捨て身で現れ出た。

 いま、かの国の新指導者は大統領府と閣僚と最高裁判所に人事を配し大統領令を繰り出して「国家」の不義をもたらした科学幻想、宗教幻想、法幻想、経済幻想、民族幻想を「国家」に同致して「国家」の道義を糺し、懐かしくも儚く遠ざかっていく「祖国」を惹き戻すため勇躍捨て身で船出した。

 

 

 

 

””

「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」

 (「祖国喪失-壱-」寺山修司

””

 

あの頃、この国のかの詩人は虚栄と虚妄の都市に身を潜め、叙情に絡みとられた「故郷」を遥かに夢みながら、港の霧に霞みゆく「祖国」喪失を叙景した。

 

あの頃から時はめぐってこの国もまた「国家」の不義によって多くの人々が疲弊した。

 

いまこの国では「祖国」の礎の「国家」道義の体現者たる「天皇」幻想はその像すら結ばない。

 

もう人々が叙情を抑えながら叙景できる「祖国」は失われた。

もう「祖国」は叙情に絡みとられた人の心に浮かぶだけの孤立の幻影となった。

 

もうこの国には「国家」の道義を糾すすべもなく捨て身して惹き戻すべきほどの「祖国」も喪われた。

 

この国はこの「国家」の不義をもたらした科学幻想、宗教幻想、法幻想、経済幻想、民族幻想の、いまはもうその虚構、虚妄が顕になった「近代」という幻想をなお頑なに信仰してその運命を委ねていくほかないところにまでながれついた。

 

 

 

 

「道義」

 

 

  ”” 私は本来国体論には正当も異端もなく、国体思想そのものの裡にたえず変革を誘発する契機があって、むしろ国体思想イコール変革の思想だという考え方をするのである。それによって平田流神学から神風連を経て二・二六にいたる精神史的潮流が把握されるので、国体論自体が永遠のザインであり、天皇制信仰自体が永遠の現実否定なのである。明治政府による天皇制は、むしろ絶対的否定的国体論(攘夷)から天皇を簒奪したものであった。明治憲法天皇制において、天皇機関説は自明の結論であった。」

「しかし、明治憲法上の天皇制は、一方では道義国家としての擬制を存していた。この道義国家としての擬制が、ついに大東亜共栄圏と八絋一宇の思想にまで発展するのであるが、国家と道義との結合は、つねに不安定な危険な看板であり、(現代アメリカの「自由と民主主義」」の使命感を見よ)これが擬制として使われれば使われるほど、より純粋な、より尖鋭な、より「正統的な」道義によって「顚覆」され「紊乱」される危険を蔵している。道義の現実はつねにザインの状態へ低下する惧れがあり、つねにゾルレンのイメージにおびやかされる危険がある。二・二六は、このような意味で、当為の革命、すなわち道義的革命の性格を担っていた。」

「あらゆる制度は、否定形においてはじめて純粋性を得る。そして純粋性のダイナミックスとは、つねに永久革命の形態をとる。すなわち日本天皇制における永久革命的性格を担うものこそ天皇信仰なのである。しかし、この革命は、道義的革命の限定を負うことによって、つねに敗北を繰り返す。二・二六はその典型的表現である。””

ちくま文庫「文化防衛論」『道義的革命』の論理ー磯部一等主計の遺稿についてー」三島由紀夫著)

 

 

 

 

「 近代」は神から自由となったとしても「近代」というなおの「擬制」であり、その「擬制」は「道義」から免れることはできない。

 

近代国家がいかなる政体を採りいかなる政治理念を掲げてもそれら「擬制」は「国家道義」から免れることはできない。

「独裁あるいは民主」政体のいずれの「戦争あるいは平和」理念のいずれの「擬制」もまた「国家道義」から免れることはできない。

 

 

 

明治憲法は近代国家の政体と理念を擬制しながら天皇を万世一系統治権総覧の元首とする「国家道義」を擬制した。

 

 

磯部一等主計はみずからの内なる道義と国家道義の合一を信じて蹶起した。

 

磯部一等主計は蹶起したあと「国家道義の体現者」天皇の「大御心」を弛まずに待った。

 

磯部一等主計は「永久道義的革命の限定」を負うもののつねとして敗北し刑死した。

 

 

 

 「いかなる政体も理念も擬制として使われれば使われるほど、より純粋な、より尖鋭な、より正統的な道義によって顚覆され紊乱される危険を蔵し、道義の現実はつねにザインの状態へ低下する惧れがありつねにゾルレンのイメージにおびやかされる危険がある。」

 「あらゆる政体も理念も否定形においてはじめて純粋性を得るものであり、その純粋性のダイナミックスとは、つねに永久革命の形態をとる。」

 「日本天皇制における永久革命的性格を担うものこそ天皇信仰なのである。しかし、この革命は、道義的革命の限定を負うことによって、つねに敗北を繰り返す。」

 

 

 磯部一等主計は「永久道義的革命の限定」を負うもののつねとして敗北し刑死した。

 

 

 

 

 いまかの国では「自由と民主主義」政体と理念の「擬制」が使われれば使われるほどとしてそのゾルレンのダイナミックスを失ないザインの状態に低下した。

いまかの国では「ポリティカルコレクトネス」によってその「自由と民主主義」政体と理念の「擬制の正統性」を維持しようとすればするほどとしてそのゾルレンのダイナミックスを失ないザインの状態に低下した。

 

「あらゆる制度は、否定形においてはじめて純粋性を得る。」

「純粋性のダイナミックスとはつねに永久革命の形態をとる。」

 

 かの国の次代指導者はその「自由と民主主義」政体と理念の「擬制」の否定形においてその「擬制の純粋性」を獲得しようとしている永久の道義的革命者であるのか

かの国の次代指導者もまた「道義的革命の限定」を負うものとしていずれ敗北していくのか

 

 

 

 

 現憲法は「自由と民主主義」政体と理念の擬制のもと天皇を日本国及び日本国民の統合の象徴とする「国家道義」をなお擬制した。

 

 

 いま象徴天皇は「国家道義の体現者」としてのあり方振る舞い方について国家の主権者日本国民に問いかけその理解を待っている。

 

 

 いまこの国の「自由の民主主義」政体と理念の擬制の運命は象徴天皇が問いかけ理解を求める国家の主権者日本国民の「国家道義」の認識と意思にこそ委ねられている。

 

 

 

「モノリス」

 

 

「『魁種族』が地球に放り込んだ『モノリス』に触発された『ヒトザル』は道具を創って獣を倒して喰らい武器を創って反目するヒトザルを殺戮し、その歓喜のあまり放り上げた骨が最新衛星に一変する」

「月に移住した人類はクレーターで『モノリス』を発掘し、その調査のため、船長ボーマンら5名の乗組員と人工知能HALを乗せた宇宙船ディスカバリー号木星探査に向かう」

「飛行の途上人工知能HALの反乱によって4人の乗組員が殺害されるが、人工知能HALの思考部を停止して亡き者とした船長ボーマンは一人なお木星に向かう」

「その木星の衛星軌道上に巨大な『モノリス』、『ビッグブラザー』が出現しスターゲイトが大きな口を開け放つ」

「船長ボーマンはそのスターゲイトに吸い込まれて宇宙の彼方へ転送され、そこで肉体を脱した精神のみの生命体『スターチャイルド』に生まれ変わる」

                                      ””

(「2001年宇宙の旅」ー2001:A  Space OdysseyーウイキペディアWikipediaからの抜粋)

 

 

 

 「ヒトザル」は「道具を創って獣を倒して」自然と動物から疎外された。

「ヒトザル」は「武器を創って反目するヒトザルを殺戮して」みずからの生と死から疎外された。

「ヒトザル」は「創造と破壊」「生と死」の時間律、因果律から疎外された。

 

 

 人類となった「ヒトザル」はまだ月に移住していない。

 人類はいまもこの地球で「道具を創って獣を倒して喰らい武器を創って反目する人類を殺戮している。」

 人類はいまもこの地球で「創造と破壊」「生と死」の時間律、因果律に疎外されたままである。

 

 

人類はこの「創造と破壊」の疎外から免れるためAI人工知能を創り始めている。

人類はこの「生と死」の疎外から免れるため万能細胞を創り始めている。

 

AI人工知能と万能細胞の「創造」もなお人類を疎外する。

AI人工知能と万能細胞の「創造」によって人類は「肉体を脱した精神のみの生命体」となり「肉体と精神をもった生命体」である人類から自己疎外される。

「肉体を脱した精神のみの生命体」はまた「肉体と精神をもった生命体」を息づかせる「地球」からも疎外される。

 

 

人類はAI人工知能と万能細胞の「創造」によりみずから自己疎外されまた地球からも疎外されることを感知して怖れはじめている。

 

 

人類はこの自己疎外と地球からの疎外を怖れて地球から脱出すべく火星へ移住するためのロケット準備を完了しつつある。

 

それでも火星に移住するのは「肉体を脱した精神のみの生命体」でなく、「創造と破壊」「生と死」の時間律、因果律に疎外されたままの「肉体と精神をもった生命体」である。

 

 

人類はこれら疎外から逃れるためにはもはや「ヒトザル」が触発されてそれを齎した「モノリス」の秘儀を探索するしかない。

 

「魁種族」が放り込んだ「モノリス」はこの地球の地層深く埋没しているのかはたまた月あるいは火星のクレーターに潜むのか。

 

「魁種族」が新たな「モノリス」を放り込む気配は微かながら漂っている。

「魁種族」が地球にやってくる気配、月か火星の訪問者となる気配も微かながら漂っている。

 

「魁種族」が新たな「モノリス」を放り込むか地球か月か火星の訪問者とならなければ人類は「モノリス」の秘儀探索の旅に出るしかない。

 

その人類の探索衛星の軌道上には「魁種族」が設えた「ビッグブラザー」「モノリス」のスターゲイトが大きな口を開けて待ち構えている。

 

人類がそのスターゲイトに吸い込まれると宇宙の彼方に転送される。

そして人類はみずから希みながらも怖気付いて生まれ変わることができなかった「肉体を脱した精神のみの生命体」、「スターチャイルド」に生まれ変わることができる。

「堕落」

”” 人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。

戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。

だが、人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。人間は可憐であり脆弱であリ、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。人間は結局処女を刺殺せずにはいられず、武士道をあみださずにはいられず、天皇を担ぎださずにはいられなくなるであろう。

だが、他人の処女でなしに自分自身の処女を刺殺し、自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして人の如くに日本も亦堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である。 ””

(「堕落論坂口安吾著 銀座出版社発行)

 

 

共同幻想に囚われた人間は永遠に堕ちぬくことはできない。

個人の始めと終わりの生と死も共同幻想に囲い込まれた世界で人間は堕ちぬくことはできない。

堕ちぬくことができない人間は共同幻想に浮かぶ他人の処女を刺殺し武士道をあみだし天皇を担ぎ出して共同幻想化する。

 

 

「人間は生き、堕ちる。そのこと以外に人間を救う便利な近道はない。」

 

人間は正しく堕ちきることができる。

 

他人の処女、武士道、天皇はあまねく共同幻想でありその共同幻想を抱く自分もまた共同幻想である。

共同幻想を抱く自分は自分自身の逆立像であり共同幻想に浮かぶ虚像であって自分自身ではない。

 

人間は自分を共同幻想から解き放ち自分自身として堕ちていけば正しく堕ちきることができる。

正しく堕ちぬくことができれば人間は自分自身を発見することができるし救われる。

 

 

 

”” 『お前の眼の中にあたしは軽蔑を読みとりたいのよ、軽蔑と、怖気を』

これが母の、母としての、又、女としての最終的な願望であった。人を堕落に誘うとは、真理に目ざめさせることであり、彼女はもはや究理者ではなくて、その信ずる真理の体現者でなければならず、要するに究極的に『神』でなければならないのである。””

中央公論社発行「小説読本ー小説とは何かー(ジョルジュ・バタイユ)」三島由紀夫著)

 

 

 

 

人間は「堕落」によって真理に目覚め救われる。

 

 

 

「草の葉」

 

 

” 申し分なく産みつけられ、一人の完全な母によって育て上げられ、
生まれ故郷の魚の形をしたパウマノクを出発して、
多くの国々を遍歴したあと――人の往来はげしい舗装道路を愛するものとして、
わたしの都市であるマナハッタのなか、さてはまた南部地方の無樹の大草原のうえの住民として、
あるいは幕営したり、背嚢(はいのう)や銃をになう兵士、あるいはカリフォルニアの抗夫として、
あるいはその食うものは獣肉、飲むものは泉からじかというダコタの森林中のわたしの住居に自然のままのものとして、
あるいはどこか遠い人里離れたところへ黙考したり沈思するために隠棲(いんせい)し、
群衆のどよめきから遠のいて合間合間を恍惚(こうこつ)と幸福に過ごし、
生き生きした気前のいい呉れ手、滔々(とうとう)と流れるミズリー川を知り、強大なナイアガラを知り、
平原に草を食う水牛や多毛でガッシリした胸肉の牡牛(おうし)の群れを知り、
わたしの驚異である大地、岩石、慣れ知った第五の月の花々、星々、雨、雪を知り、
物まね鳥の鳴く音と山鷹(やまたか)の飛び翔(か)けるのを観察し、
明け方には比類まれなもの、湿地種のシーダー樹林からの鶫(つぐみ)の鳴くのを聴き、
《西部》にあって歌いながら、ただひとりでわたしは《新世界》へと旅立つ。”

 (「草の葉ーパウマノクを出発してー」ウォルト・ホイットマン/富田砕花訳 グーテンベルク21発行)

 

 この壮大な叙景詩魂はホイットマンの身体に深く宿る。

 

 

 「世界はほかならぬ身体という生地で仕立てられている」(「目と精神」メルロ・ポンティ)

 

 

 申し分なく産みつけられ、一人の完全な母によって育て上げられた、ホイットマンの力漲る身体は、都市マンハッタン、南部の大草原を、カリフォルニア、ダコタ、ミズーリを彷徨い、それら行く先々の自然と大地とさまざまに交合して、その身体のうちに、荒々しくも瑞々しい幾重もの生地で織りなす「世界」を仕立て上げた。

 

 このホイットマンの「詩魂」はかの大陸の人々の心身を激しく揺さぶり、数知れない人々が故郷を出発して都市マンハッタン、南部の大草原を、カリフォルニア、ダコタ、ミズーリを彷徨い、それら行く先々の自然と大地とさまざまに交合して、その身体のうちに、荒々しくも瑞々しい幾重もの生地で織りなす「世界」を仕立て上げた。

 

 

 

  いま「都市マンハッタン」ウオール街はヘッジとレバレッジを効かせた金融工学の覇者たちに占拠されている。

 いま「カリフォルニア」シリコンヴァレーはゼロワンアルゴリズムのサイバー空間の覇者たちに占拠されている。

 

 彼ら覇者たちは金融工学とサイバー空間という「身体から遊離した観念の擬制によって仕立てられた世界」を築き上げ、「身体という生地によって仕立てられた世界」からは截然と疎外された。

 

 彼ら覇者たちは「身体から遊離した観念の擬制によって仕立てられた世界」で繰り広げられる宴あとの空虚に苛まれて「身体という生地によって仕立てられた世界」からの疎外を日毎夜毎深めている。

 

 彼ら覇者たちはもはや「身体という生地によって仕立てられた世界」には戻れないことを知っている。

 

 彼ら覇者たちは「身体から遊離した観念の擬制によって仕立てられた世界」の行く末を怖れ、戸惑い始めている。

 「身体から遊離した観念の擬制によって仕立てられた世界」の果てにあるAI人工知能による世界支配を怖れ、戸惑い始めている。

 

 彼ら覇者たちは「身体という生地によって仕立てられた世界」を忘却の彼方へと押しやるため、その疎外をなきものとするためにAI人工知能による世界支配を容認すべきか戸惑っている。

 AI人工知能による世界支配によって「身体という生地によって仕立てられた世界」が壊滅するまえにこの地球を捨て、火星に向けた方舟を漕ぎ出すべきか戸惑っている。

 

 

 さきに次代指導者に選出された「都市マンハッタン」の輝く高層ビル屋上階の人もまたいずれ「身体から遊離した観念の擬制によって仕立てられた世界」と「身体という生地によって仕立てられた世界」双方からの挟撃にあい、戸惑い迷う。

 

 

 それでも「身体という生地によって仕立てられた世界」に生きる人々は戸惑うことはない、迷うこともない。

 

 「身体という生地によって仕立てられた世界」の人々の身体は「身体から遊離した観念の擬制によって仕立てられた世界」の廃墟灰塵のなかからなお自然と大地が悠然と蘇りまた立ち昇ることを知っている。

 

 身体という生地は戸惑うことも迷うこともない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「二重橋」

 

 

 ” 久しぶりに 手を引いて

  親子で歩ける うれしさに

  小さい頃が 浮かんできますよ

  おっ母さん

  ここが ここが二重橋

  記念の写真を撮りましょうね

 

  やさしかった兄さんが

  田舎の話を聞きたいと

  桜の下で さぞかし待つだろ

  おっ母さん

  あれが あれが九段坂

  逢ったら泣くでしょ 兄さんも

 

  さあさ着いた 着きました

  達者で永生き するように

  お参りしましょよ 観音様です

  おっ母さん

  ここが ここが浅草よ

  お祭りみたいに 賑やかね”

 

( 詩・野村俊夫 曲・船村徹 歌・島倉千代子

 

 

 

人は不条理を不条理として受け入れることはできない。

 

近代イデオロギーによって起こされる戦争の不条理は近代イデオロギーによって条理化されることはない。

 

「平和のための戦争か」

「戦争による平和か」

 

 

近代イデオロギーによって起こされる戦争の原因と責任は近代イデオロギーによってその原因が究明されその責任が追求されることはない。

 

「植民地化か解放か」

「内閣か軍部か天皇か」

 

 

 

近代イデオロギーによって起こされる戦争の不条理は近代イデオロギーを相対化し無化する思想と詩歌によって癒されるしかない。

 

 

”戦争中、心で仰ぎ見た皇居二重橋で記念の写真を撮って、戦争で死んだ優しかった兄が眠る九段坂を訪ね、なお達者で永生きするよう浅草観音に祈る母娘の姿”

 

 

戦後を生きた人たちはこの詩歌に込められた思想によって戦争の傷跡をひっそりと癒すことができた。

戦後を生きた人たちはこの詩歌に込められた思想によって戦争の傷跡をひっそりと癒すしかなかった。

 

 

 

先の戦争が終わって70年

 

また近代イデオロギーの信奉者たちが「戦争と平和」について語り始めている。

 

近代イデオロギーよる「戦争と平和」の原因究明責任追及の不能のままに。